「グローカル」とは何でしょうか?
「グローバル」(地球規模の)と「ローカル」(地域的な)という二つの形容詞の合成語です。この数年は地域経済の活性化と結び付けて論じられることが多くなりました。「グローバルな視野を持ちながら、地域に根差して行動する」といった意味合いで使われます。
具体例を挙げてください。
実はわたしが勤務する京都産業大学も深くかかわっています。京都の5大学(京都産業大学、京都府立大学、京都文教大学、佛教大学、龍谷大学)と、京都経済4団体(京都商工会議所、京都経営者協会、京都経済同友会、京都工業会)、さらに京都府や京都市、それに地域公共人材開発機構が連携・協力して、「グローカル人材開発センター」というNPO法人を立ち上げました。このホームページをご覧ください。
このセンターの目的は、明日の京都を支え得る若い意欲的なビジネスリーダーを育成することで、京都産業大学のカリキュラムにも「グローカル人材基本科目」が設置され、きちんと履修すると「グローカルプロジェクトマネジャー」(GPM)の資格が取得できます。その授業風景は談論風発、和気藹々として、そこからいくつもユニークなアイデアが出され、実行に移されている由です。京都の未来は明るいですね。
そう願っています。しかし京都の観光政策などをみていると、何か道を誤っているのではないかと不安になります。訪日外国人の急増に伴い、この数年京都はすっかり様変わりしてしまいました。御承知のように錦市場もすさまじいことになっています。ここは四百年の歴史を誇る商店街で、かつては地元民が魚や野菜や豆腐や湯葉などの食材を調達する市場だったのに、現在は訪問客の大半が外国人で、店も食べ歩きができるファーストフードを商うようになり、京都人は寄り付かなくなってしまいました。他の商店街も同様です。先日、新京極通を歩いていたら、わたしの前を行く老夫婦が「この辺は薄っぺらな店ばかりになったね」とぼやいているのが聞こえました。
「薄っぺらな」とは手厳しい。
その「薄ぺっらさ」が市行政にも見て取れるのです。その典型が「SUSHI劇場」です。これは先日、「カナリア倶楽部」の「今日のカナリア」でも取り上げられていましたが(というより、わたしもそれを見て初めて知ったのですが)、京都市は昨年11月、秋元康氏に総合プロデュースを委ね、外国人が楽しめる「SUSHI劇場」なるものを平安神宮の敷地内に開設したのです。そこでは日本の伝統芸能もどき、忍者、芸者、サラリーマン、戦隊ヒーロー、オタクなどをネタにし、日本語がわからなくても理解できるパントマイム形式で、90分のドタバタ劇が演じられたようです。9000円近い入場料をとって……。結果は惨憺たるもので、今年2月に閉鎖に追い込ました。外国人でもこんな底の浅い「和風」エンターテインメントは求めていないのでしょう。
確かに京都を安っぽい「和のテーマパーク」にしてはいけませんね。インバウンドに迎合した観光政策をとることは、京都の歴史的な資産を自ら切り崩すことになりそうです。
はい。テーマパーク的な発想が古いと思います。大阪万博の開催や、大阪・夢洲へのカジノなど総合型リゾート(IR)の誘致なども発想が古い。何か1970年代の高度成長期の日本へ回帰しようとしているようですが、われわれはそれが行き着いた先を知っています。京都もそれに便乗しては危ういと考えます。
では、どうすればいいのでしょう?
話はグローカルに戻りますが、世界に打って出るにはローカルな特性、伝統、文化を大事にすることです。古き伝統が、新しい価値を生み出すことを京都は実証しています。ここにはノーベル賞受賞者の田中耕一氏を擁する島津製作所を始め、任天堂、オムロン、村田製作所、堀場製作所、京セラ、ローム、日本電産、ワコールといった世界的に知られた地元企業が多数存在しますが、これは西陣織や清水焼など、物作りを大切にする京都の伝統が今も継承され、息づいているからこそでしょう。また多くの大学が集まり(京都市の人口の約一割が学生)、知的風土を培っていることも重要です。わたしは大学教師の一人として若い世代に大きな期待を抱いています。グローカルな視点に立つ若者が、過去の資産を食いつぶすのでなく、それをより豊かに発展させてゆくことを望んでいます。
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