発達心理学でよく取り上げられるトピックに「ハインツのジレンマ課題」というものがあります。米国のコールバーグという研究者が使ったもので、こんな内容です。
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昔々あるところに、ハインツさんという人がいました。貧乏でしたが妻と二人で幸せに暮らしていました。あるとき、妻が重い病気になりました。薬を飲めば治るのですが、その薬はとても高くてハインツさんには買えません。薬屋さんに頼みましたが、お金を払わないと渡せないと言われました。ハインツさんは親戚や友人にお金を貸してもらって、なんとか半額を準備しました。それでも薬屋さんは薬を渡してくれませんでした。ハインツさんは仕方なく、夜に薬屋さんに泥棒に入って、薬を手に入れました。さて、ハインツさんのしたことは悪いことでしょうか?
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この課題への回答傾向は、青年期以降では文化等によって異なると言われますが(誤差の範囲という指摘もあります)、小学生までの子どもの回答パターンはある程度一定しています。小学校低学年の子どもの場合、「泥棒は悪い」と答えます。「でも薬ないと、奥さんが死んじゃうんだよ」と(課題を提示している研究者が)言っても、「でも、泥棒はあかん」となります。高学年の子どもたちは考え込みます。「泥棒はあかん、けど、奥さんが死んでしまう。でも泥棒は…、ああ、どうすればよいんだ!」という感じです。
さて、「気になるTweet」でも紹介されていましたが、広島市の学校の平和学習の教材から、『はだしのゲン』が削除されることになったとのことです。2019年の6月に「資料館等での戦争展示:戦争に反対する声を消さない」という記事を書きましたが、同じような匂いを感じますね。同様の指摘をする声もありますし、決定の経緯の不透明さを指摘する声もあります。いくつかTweetを紹介します。
「はだしのゲン」教材から削除に関して。黙っていることができません。
8月6日の登校日、小学1年でしたがアニメ映画のシーンは強烈に記憶に残っています。
子どもが接しやすい漫画、そして戦争・原爆の悲惨さを伝える教材としてこれ以上のものはないのではないでしょうか。https://t.co/PW3TdosJUG— 宮口治子 (@miyaguchiharuko) February 20, 2023
「はだしのゲン」の広島市教材からの削除、前々職場の関係者から色々聞く流れの一つという気がして衝撃を受けてる。近年の広島原爆資料館の展示物変更のことも思い出す。被曝人形撤去の提案が出た時期がまさにあの時期。https://t.co/FWm5s01Kwi
— おきさやか(Sayaka OKI) (@okisayaka) February 16, 2023
2019年にも指摘が。 https://t.co/oPnx9t9WOX
— おきさやか(Sayaka OKI) (@okisayaka) February 18, 2023
はだしのゲン削除について、市教委の担当者に改訂会議の議事録を開示していただき、お話を聞きました。ある時点の会議では削除まで議論されていなかったのに、次の会議に提示された新テキスト案でははだしのゲンが削除されており、その間の新テキスト作成作業は極少数の教員で行われたようです。
— 宮口治子 (@miyaguchiharuko) February 22, 2023
さてその一方で、削除の理由は「学校現場で子どもに教えにくいから」という「中立的な」ものだという主張もありました。私としてはこのことこそ、問題だとも思います。
「中立的な判断」と主張する人たちが言うのは、病気の母を救うためにゲンが鯉を盗むシーンが、現代の子どもたちにはわかりにくいというものです。まさに上記のハインツのジレンマ課題に相当する状況で、低学年の子どもたちが「泥棒はあかんで!」と反応してしまうのはわかります。けれども、それこそが、教育が必要とされる場面だということです。
低学年の子どもたちはまだ、ゲンたちの「ジレンマ」を言葉にして語ることは難しいです。けれども、ゲンがお母さんを心配していることも、鯉を盗むことはよくないことであることも、それぞれ理解することができます。戦争という極限状況に置かれていることも理解します。それらを総合して言葉にするのはまだ難しいけれども、精一杯にモヤモヤすることができます。このモヤモヤこそが、大事なはずです。
学校教育の現場が、子ども達がモヤモヤできずに、「スッキリわかる」「明確に答えを言える」ことだけを求められる状況になっているとすれば、それこそ問題ではないでしょうか。先生たちにサポートされながら、精一杯モヤモヤしながら、子どもたちは育っていくのです。そうやってモヤモヤしてきた低学年時代があるから、高学年児はハインツのジレンマ課題を提示されて、考え込むことができるのです。
ちなみに当該の部分が紹介されています。
はだしのゲンで「鯉を盗むシーンが問題」という記事を見たが、結末はこれで何の問題もないと思う。それを指摘した人間は通読していないのではないか? pic.twitter.com/ZyQjbsZOVb
— 🏕インドア派キャンパー 📣ⒻⒸⓀⓁⒹⓅ🔥 (@I_hate_camp) February 22, 2023
『はだしのゲン』を読むことの大切さを指摘する声も紹介しておきましょう。海外のものもあります。
私は広島出身ですので、はだしのゲンは何度も読みました。はだしのゲンを読んで私が学んだことは「空気」が最も恐ろしいということです。一部の悪人ではなく、民衆が一つの空気に染まった時、最も恐ろしいことが起きるという教訓をぜひ残しておいてほしいと思います。
— Dai Tamesue 爲末大 (@daijapan) February 19, 2023
#はだしのゲン 海外の人の反応
元米軍兵士の感想『戦争に行く前に読むべきだった』『戦争がなにをもたらすのか世界中の人はこのマンガを読んで知るべきだ』#はだしのゲンを無くすことに抗議します pic.twitter.com/XWY9Je83ZP— 桃太郎+ (@momotro018) February 19, 2023
「はだしのゲン」をめぐる報道を受けて、本日は多数のお問い合わせとご注文をいただきました。ありがとうございました。直接作品にふれ、戦争と平和について考えるきっかけにしていただけますと幸いです。
「はだしのゲン」特設サイトhttps://t.co/8L8G1f3mIX
— 汐文社 (@choubunsha) February 17, 2023
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