1月10日火曜日の日本経済新聞の夕刊に、「小学校入学へ心身慣らして」という記事が掲載されていました。記事に反論をしたいわけではないのですが(間違ったことは書いていないと思います)、驚くとともに複雑な心境になりました。
小学校とそれ以前に子どもが過ごす場所(幼稚園や保育所)は、環境が大きく異なります。京都教育大学の教員をしていた岡本夏木先生(故人)は、学校とそれ以外の場所で使う言葉の性質が異なることを、一次的言葉と二次的言葉と説明しています。
一次的言葉は、互いに文脈を共有し合っている親しい間柄で使われる言葉ですが、二次的言葉は不特定多数に向かって説明をする言葉です。子どもが先生に「昨日ね、お化けに会ったの」と話すと、先生は少し前にその子の親が「週末にお化け屋敷のある遊園地に行く」と言っていたことを思い出して、「**園に行ったのね」と返答し、「どんなお化けがいたの?」などと質問をして、子どもが話したいことを引き出してくれます。これに対して、学校で黒板の前に立って、「私は、夏休みにお祖父ちゃんに会いに行きました。近くに**園という遊園地があって…」と説明をする言葉が二次的言葉です。
二次的言葉を使いこなせるようになることは、小学校の学習でとても重要なことです。そのため、例えば消しゴムを忘れた子どもが「先生、消しゴム」と言ってきたら、先生はわざと「先生は、消しゴムではありませんよ」と言ってみたりして、「先生、消しゴムを忘れたから貸してください」と子どもが説明することを促したりします。
岡本夏木先生は、「二次的言葉の獲得は子どもにとって困難な仕事」だと言っています。それは言葉の問題だけではなく、遊びを中心とする保育所や幼稚園から、学習を中心とする学校という異文化・異環境への参入が「大仕事だ」ということを述べているのです。
そのようなことで、子どもが学校で上手くやっていけるかということは、親御さんにとっても大問題と感じられるのでしょう。上の記事では、「教科書の入ったカバンなど、重い荷物を持たせて体力をつける」、「通学路を何度か歩いておく」、「時間割を意識した生活をする」、「学童保育など放課後の過ごし方を体験させておく」、「勉強することに慣れさせる(机に向かう習慣をつける)」の5つが上っていました。通学路は安全のこともあるので理解できるのですが、そんなことまでしないといけないのか…?と思うこともありました。
裏を返すとそれは、現在の学校が入学したての1年生に対して、負担を強いているということのように思います。自分の小学校入学を思い出すと、教科書は国語と算数の2冊だけを持ち運びして、他は学校に置きっぱなし。チャイムに従って行動することもわからずに遊び続けて、先生が校庭に迎えに来てくださったり。勉強に至っては、最初のうちは勉強らしい勉強がなくて、「先生、勉強しよう、勉強しよう!」とクラスの子ども達が口々に言っていたり(1年生は小学生になったというプライドを持っています)。
子どもたちが無事に学校文化・環境に慣れていけるように、余裕を持たせてあったのです。
私は学生・院生時代には小学生の発達の研究をしていたのですが、仕事の都合で20年ほど、学校から離れざるを得ませんでした。縁あって去年くらいから学校の様子を聞くのですが、変容ぶりには驚かされます。12月の「夢みる小学校」の記事で紹介した、彦根市のフリースクール・てだのふぁの山下先生が、「子どもが持ち帰ってくる宿題の量を見たら、驚きますよ」とおっしゃたのを思い出しました。
繰り返しになりますが、日経新聞に載っていた記事を批判しているのではなく、子ども達がゆったりと学校生活に馴染んでいけるような余裕のある学校を、広く求めてみたいなあと思ったのでした。
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