二つの人生しかないと思っていた。
会社を起こすか、何か一芸等を極めて、圧倒的な成功者になる人生。
または、いい会社に就職しマイホームを持つ、順風満帆の人生。
それが、月300時間も、インターンシップで働いたあげくに、就職するはずのその会社が傾いた。疲れきって、もう、新たに就活を始める気力はない。
卒業したものの、ゲームと、寝て、食べるだけの引きこもり生活が始まった。
二つの人生のどちらにも進めなかった。どこにも所属していない、働いていないことが恥ずかしく、人前に出ることができなかった。
約一年ほどすると、ゲームと寝るだけの生活に飽き、ピアノを弾きたい、と思い立つ。バイトをしてキーボードを買い、独学で練習。
そのキーボードを担いで友人の勧めで台湾へ。公園で練習していると、人が集まって来て、練習してるだけなのに投げ銭をしてくれる！ こんなお金の稼ぎ方があることを知る。
その日から、路上演奏で日銭を稼ぎながら各地を放浪する人となる。
価値観が変わり、決まった目標に向かうんじゃなく、その場その場の縁や流れにのってそれを楽しむ。そんな人生にシフトしていく。
カナダにいるとき、コロナ対策のロックアウトで町に人がいなくなり、路上演奏の生活を続けることができなくなった。帰国。そのとき隔離先として選んだのが、死んだ祖父がブリキのおもちゃ工場を営んでいた、葛飾区立石の一軒の空家。
隔離期間が終わり立石の町をぶらぶらする。深部にまで入る。面白い。海外にいるような、ここにはここ独自の文化があるぞと思う。もっといたいなと思い、居つく。
海外で知り合った友人とその彼女と、3人でその空家で暮らしながら、ここでカフェでも開こうかという話になる。暮らしながら手作業で、少しずつ内装を整えていく。
2020年4月。立石の片隅に、立石BASEという店がこんな経緯で、静かに生まれた。店主は目黒育ち、元引きこもりの井口雄太さん。
カフェ兼、なんでもないフリースペース。外見も、入ってみても、家みたい。そして昔ブリキ玩具の工場だった形跡がそこかしこに残る。気安さ、自由さ、懐かしさ。人が集まる場所になった。雄太さんの祖父母を知る近所の老人。となりの子ども。何かやりたい人。ヒマな人。何でもないから何でもできる、何でもないから、何にでもなる。どんな形にも変化していける。
谷口榮『千ベロの聖地「立石」物語』（新泉社刊）によれば、立石駅周辺の飲み屋や個人商店が軒を連ねる街並みは、荒川放水路開削、東京大空襲、戦後復興、朝鮮特需、高度成長、・・・時代時代の影響を受け、少しずつ形や質を変えながら、生き続け、今の「立石」となった。
そんな「生きもの」である町を根こそぎにし、そっくりコンピュータが計算・設計した縦長の「無機物」に入れ替えるのが今度の再開発事業だと感じている。事業の膨大な計画書は、線と数字だらけの図面も含め、６０ページ以上に及ぶ。
解体工事は目前に迫る。でもこんな立石の端っこ（駅から徒歩10分）の路地奥に、「計画」とは無縁の、なんの青写真もない店が、こんな、たまたまの流れで誕生したよ！
あ、「町」はこうしてできていくんだな、立石は生きているんだな、と感じる。震えるほど、なんだか、ものすごく嬉しい。
立石BASE。アイスコーヒーを注文すると「ちょっと苦くてコクがあるのと、甘くて柔らかい水出しと、どっちがいいですか」と言われ、甘くてやわらかいのを選ぶ。メチャメチャ甘く、メチャメチャやわらかく、おいしかった。通常はカフェで、ときどきいろんな思いつきのイベントがある。直近では16日に立石観光付きブックフリマ、翌週は、「きのうたまたま人と話してて、「夕ごはんの会」というのを一人800円でやることに決まった」と雄太さん。
彼が「成功」の道を進んでいたら生まれていなかった、奇跡のスペース。そう、立石に限らず葛飾区は、「失敗者」の町かもしれない、とも思うのだ。だから、多様で、だから、優しい。