教員不足がついにここまで…

学校の教員不足の問題は、以前にも書いたことがあります。状況は一向に改善せず、ついに文科省が「教員免許状を持たない人でも採用できる制度を積極的に活用するように」という趣旨の通知を出したそうです。


教員免許状を取得するための条件は、年々厳しくなってきました。現在の大学生の親世代は、自分の頃を基準にして我が子に「とりあえず教員免許状をとるように」と迫るらしいのですが、現在の教員免許状は「とりあえず」で取得できるようなものではありません。そのようにしてきたのは、教員という職業には高い専門性が求められるからだと思うのですが、教育行政の主要当事者たる文科省が、資格のない人を積極的に教壇に立てるようにと言うとは。
類似した話が、昨夏に大阪でもありました。


また、ずっと以前からの問題として、免許外の教科を担当させる免許外教科担任というものもあります。特に人口の少ない地域では頻繁にある話ですが、子ども達の学ぶ権利という観点から見て、問題があるのではないでしょうか。


教員不足の背景には、上記の異邦人さんが指摘しているような待遇の問題があることは間違いありません。他方で、それだけが問題ではないとも思います。教育学者で土佐町の議員でもある鈴木大裕さんが、大変興味深い記事を書いています。


3回シリーズなのでまだ続くのですが、この2つだけでも読みごたえがあります。
教師の仕事は、人間を育てるという総合的なものであるはずです。例えば、授業中に先生が子ども達のノートなどを見ながら教室を歩き回る行為を「机間巡視」と言いますが、先生方は子ども達が書くノートだけを見ているのではありません。一人一人の子どもたちの体調や気分がどんな感じなのか、いつもと違うところはないか、様々なことを見ています。しかし現在、総合的なはずの教師の仕事が細分化され、机間巡視は「無駄」ということにされそうです。子ども達が全員タブレットを使い、教師のパソコンとLANでつなげば、(教卓から離れることなく)一人一人の画面を見ることができます。ならば「机間巡視なんてしなくて良い」とされてしまったり、さらには画面チェック担当助手のような人を(低賃金で)雇って、1クラスの人数を大規模にすれば、教員の人件費も抑えられるな…というシナリオすらありうるかもしれません。けれどそれで、子どもたちを育てることができるのでしょうか?
カナリア倶楽部でも「競技スポーツかする学びと育ち」という連続エッセイを書きました。その中で、授業スタンダードと呼ばれる、規格化された指導を行うことが様々な形で強要されるようになっているということも書きました。これもまた、教師という総合性の高い仕事を細分化して規格化していく流れのひとつです。
教師の仕事がこんなふうにされていけば、当然ながら先生方は、仕事に意欲を持つことができなくなります。そして子どもたちもまた、学びがつまらなくなることは必定だと思われます。学校へのICTの導入そのものには、学びを豊かにする可能性もあります。けれどもそれがどのように使われるか、子どもも先生も楽しく学びに臨めるようにするには、「学ぶって何だろう」ということを私たち一人一人が改めて考えないといけないのではないかと思います。
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西垣順子<大阪公立大学 高等教育研究開発センター>
滋賀県蒲生郡日野町生まれ、京都で学生時代を過ごす。今は大阪で暮らしているが自宅は日野にある。いずれはそこで「(寺じゃないけど)てらこや」をやろうと模索中。老若男女、多様な背景をもつ人たちが、互いに互いのことを知っていきながら笑ったり泣いたり、時には怒ったりして、いろんなことを一緒に学びたいと思っている。著書に「本当は怖い自民党改憲草案(法律文化社)」「大学評価と青年の発達保障(晃洋書房)」(いずれも共著)など。


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