ニュースでパラリンピックのアスリートの特集をしていた。
その中で、
「いつも明るくふるまう●●さんに魅了された。」というナレーションが流れ、テロップにも文字で「いつも明るくふるまう●●さん」と大きく出た。
違和感を感じた。
「いつも明るい●●さん」でいいじゃないか。
「ふるまう」っていうのがつくのは、前提に「本当は明るくないのに」というのがあって、明るくふるまっている、という表現になっているような気がする。
本当は明るくないのに、っていうのは、この取材をした人の中に「障害があって辛いはずなのに」という先入観があって「なのに、明るくふるまっている」という表現になっているのではないだろうか。
少し前に、友人が「釘付け」という言葉で表現していたことがある。
「支援される立場に釘づけにされる」っていう言葉だった。
障害があって痛い思いをしたり、不便があったり、それをしんどいなあ、辛いなあって感じることもあるとは思う。でも、辛いだけでもないし、普通に笑うことも、冗談を言うことも、泣くこともある。
制度は、公的なお金を分配するから、便宜上対象者を限定しなければならないので「障害者」とか「高齢者」とか対象の枠組みを決めるけど、そうなったとたん、「大変な人」とか「しんどい人」とかの位置に釘付けにされてしまうことがあって、それが、自由に生きることを阻む面もあるのではないだろうか。
そんなことを感じた朝のニュースだった。