かわらじ先生の国際講座~サイバー攻撃の実態

この頃メディアでよく「サイバー攻撃」や「ハイブリッド戦争」といった用語を目にし、サスペンス物のテレビドラマのテーマとされたりもしていますが、現実社会におけるその実態はどうなのでしょう?

最近、国際政治学者の廣瀬陽子さんが『ハイブリッド戦争――ロシアの新しい国家戦略』(講談社現代新書、2021年2月刊)という本を出しましたが、それに様々な事例が挙げられています。日本もその脅威に無縁でないことがよく分かります。
まず「ハイブリッド戦争」の用語説明をしておきましょう。本来「ハイブリッド」とは異種のものを掛け合わせて生まれる「雑種」のことですが、これを軍事的に転用したのが「ハイブリッド戦争」という概念です。正規戦、非正規戦、サイバー戦、情報戦、宣伝戦など多種多様な戦闘を組み合わせた複合的戦争のことです。
ロシアがこの種の戦闘方法で最も大きな成果をあげたのは2014年3月、ウクライナからクリミアを奪取したときでした。ロシアはクリミアやウクライナ東部に工作員を送り込み、親露的人物を要職につけ、プロパガンダを浸透させたうえで、特殊部隊や民間軍事会社の民兵に軍事行動を起こさせ、正規軍を国境付近に結集させたのでした。さらにはサイバー攻撃なども行い、クリミアの併合に成功したのです。
2016年の米大統領選でも、サイバー攻撃やフェイクニュースの拡散を通じ、ロシアが選挙の趨勢に影響力を及ぼそうとしたことはよく知られています。

なるほど。「ハイブリッド戦争」のうち、インターネットを用いて行う攻撃が「サイバー攻撃」なのですね。ところでそれを行っているのは誰なのですか?

それが誰かよくわからないのもサイバー攻撃の特徴です。この「匿名性」という点が、犯行声明を出す爆弾テロなどとは異なるところです。ただ、およその推測はついています。第一に、国際的に暗躍しているハッカー集団や民間軍事会社、第二に彼らを雇っている国家機関、そして第三に国家機関そのものです。国家機関そのものとしては、ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)が有名です。
しかしこれはロシアに限ったことでなく、世界の主要国は大概サイバー攻撃にかかわる専門の部局をもっていますし、アメリカや中国のほうが実力的にはロシアより上でしょう。日本も2018年に発表された防衛大綱・中期防のなかで、宇宙部隊の新設やサイバー防護部隊の新編などを明記しています。ただしわが国の場合は専守防衛の立場から、あくまでも「攻撃」ではなく「防護」を目的としてはいますが。

この領域は闇が深そうですね。ところで日本がサイバー攻撃に晒されたケースはあるのですか?

東京五輪・パラリンピックの失敗を狙い、ロシアのGRUが大会関係者や組織にサイバー攻撃を仕掛けていたと、昨年(2020年)10月に英国外務省が発表したことは、わが国でもけっこう大きなニュースになりました。

ロシアがドーピング問題でオリンピックから締め出されたことへの報復とされていますが、被害の詳細は明らかにされていません。ロシア政府は否定していますが、英国当局は確証を掴んだからこそ公表したのでしょう。
これよりもう少しまえの事件ですが、三菱電機が大規模なサイバー攻撃を受け、防衛省が研究している最新鋭兵器「高速滑空ミサイル」の性能に関する情報が、同社から漏洩していた可能性が高いとの報道もありました(『朝日新聞』2020年5月20日付)。日本の安全保障を脅かしかねない深刻な事件ですが、犯人が特定されたとの続報はありません。中国のハッカー集団による「産業スパイ」という説もあります。また、同年6月には、ホンダの社内ネットワークシステムが何者かによるサイバー攻撃にさらされ、米国など世界11工場の生産が止まるという事件も起こっています(『朝日新聞』2020年6月10日付)。このように生産をストップさせるコンピュータウイルスを紛れ込ませ、それを解除することと引き換えに、莫大な金銭を要求する犯罪グループがあるようです。ホンダのケースはそれらしいと伝えられていますが、本当のところは企業側も秘密にしているため、よくわからないのが実情です。
以上はほんの一例で、同様のことが世界中で起こっています。なかでも主要なターゲットは米国で(被害の約8割)、被害の内訳はIT関連が44%、政府機関が18%、シンクタンク・NGOが18%、防衛・安全保障にかかわる契約業者が9%とのことです(廣瀬前掲書、184ページ)。

国家や社会が絶えずサイバー攻撃の危険にさらされているのですね。なんだか空恐ろしくなりますが、国際政治学あるいは安全保障の観点から、今後どのような問題が生じると予見されますか?

2点挙げたいと思います。第一は、最悪の事態を想定しつつ、国家も民間企業もサイバー攻撃の検知能力を高める必要があるでしょう。先に紹介した本の著者である廣瀬氏も指摘するように、「日本中の電気が落ち、真っ暗になり、大混乱に陥る可能性も否定でき」ません。何者かが日本を攻撃しようと思えば、武器を使わずとも、コンピュータシステムに侵入し、国家資産を奪ったり、交通機関やライフラインを断ち切ったりすることも理論上は可能でしょう。このようなサイバー攻撃に対しては、完全な防備はありません。攻める側も守る側も日進月歩で技術を高めているためです。いわば「いたちごっこ」の状態を覚悟しなくてはなりません。防衛予算も膨らまざるを得ないでしょう。
第二に、戦争の概念が一変します。従来は、平時と有事をはっきりと峻別することができました。通常、交渉を打ち切り武力行使に移行したとき、戦争は始まります。しかしサイバー攻撃の形をとる場合には、もはや平時と有事の区別がなくなります。たとえば某国が日本の国力を奪うために、ひそかにサイバー攻撃を仕掛けてきたとします。それに対抗すべく日本政府もサイバー防衛からサイバー攻撃へ転じるかもしれません。これらが国民の知らぬところで起こっていたとしたらどうでしょう。気が付けば、もう戦争が始まっていたということになりかねません。最初に定義付けした「ハイブリッド戦争」とは、まさにこの種の戦争なのです。これは技術の進歩による新しい形の戦争であって、現行の国内法や国際法では追いつかない事態が生じていることにわれわれは気づく必要があるでしょう。
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河原地英武<京都産業大学国際関係学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもあり、東海学園大学では俳句創作を担当。俳句誌「伊吹嶺」主宰。


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