与謝の海養護学校50周年

京都府立与謝の海養護学校(現在は与謝の海支援学校)が創立50周年を迎え、10月末に記念式典が行われました。与謝の海養護学校は、日本の障碍児教育の歴史上、とても重要な学校です。
日本国憲法が制定されて、すべての国民に教育を受ける権利が保障されました。 けれどそれだけでは、教育を普及させるこことはできません。例えば、学校は誰が作るのでしょうか?教師は何人配置するのでしょうか?お給料はだれが払うのでしょうか?そういう具体的なことを、法律や法令、規則や基準で決めていって初めて、すべての子どもたちが学校に通えるようになります。残念ながら戦後日本のスタートに際して、障碍のある子どもたちは放っておかれました。彼女・彼らが学ぶための学校である養護学校(支援学校)の設置義務について、政府が定めなかったからです。
養護学校(支援学校)の義務制が実現したのは、1979年(昭和54年)です(「子どもに養護学校に行くこと」を義務付けたのではなく、「障碍が重くても学べる場所を作ることを都道府県に義務付けた」ことに注意)。
与謝も海養護学校は、養護学校義務制以前の1970年(昭和45年)に、京都府立の2番目の養護学校として開校しました。知的障害のある子どもたちを受け入れる学校としては初めてのものでした。当時、知的障害や肢体不自由などの重い障害のある子どもたちは「教育可能性がない」などというレッテルを貼られて、学校から拒否されていました。それも親に対して「就学免除願」を出させるという方法をとっていました。つまり、行政が「学校建設が間に合っていません、ごめんなさい」と言うのではなく、親に「うちの子どもは学校に行けません。ごめんなさい」と言わせていたということです。そんな中「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに合わせた学校を作ろう」という住民運動が、京都府北部では組織的で広がりのあるものとして展開されていたのでした。品川文雄(発達保障研究センター理事長)による解説がこちらにあります。


与謝の海養護学校は、開校後も様々な困難に直面しました。そもそも国が作る意義を認めていなかった学校ですので、必要な予算措置も十分にありません。また当時は、障碍のある子どもたちをどのように理解し、教育すればよいのかについての知見も、現在に比べると十分広まっていませんでした。けれど与謝の海の教師も子どもたちも親御さんも、連帯して工夫して努力をしました。京都府も援助しました。
上の写真は、歌い継がれてきた「ぼくらの学校」です。「(より障害の重い)あの子が大事にされんかったら、ぼくかて大事にされないのやで」という歌詞は、とても象徴的なものだと思います。
「より高い点数を」とか「世界ランキングの順位アップを」といった掛け声が教育現場を席巻しがちな今日、京都府北部、与謝の海の歴史を今一度振り替えてみたいと思います。
なお、養護学校設置運動の中心人物であった青木嗣夫氏の娘婿である青木一博氏のインタビューがこちらに掲載されています。すべての子どもたちの健やかな発達を願う教育実践と住民運動の背景には、過酷な戦争体験があったこと、そして今、「学校づくりは箱作りではなく地域づくりである」という与謝の海の理念を地道に実現しようと町づくりに取り組んでいる人々の活動が語られています。

※本記事の写真は、渡部昭男教授(神戸大学)よりご提供をいただきました。

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西垣順子<大阪市立大学 大学教育研究センター>
滋賀県蒲生郡日野町生まれ、京都で学生時代を過ごす。今は大阪で暮らしているが自宅は日野にある。いずれはそこで「(寺じゃないけど)てらこや」をやろうと模索中。老若男女、多様な背景をもつ人たちが、互いに互いのことを知っていきながら笑ったり泣いたり、時には怒ったりして、いろんなことを一緒に学びたいと思っている。著書に「本当は怖い自民党改憲草案(法律文化社)」「大学評価と青年の発達保障(晃洋書房)」(いずれも共著)など。