カナリアに聞く~川村輝夫さん

~フォークソング全盛期の60年代から70年代、京都でそのブームを牽引するラジオ番組を制作した川村輝夫さん。68年に発売中止になった「イムジン河」をラジオでかけ続けた川村さんは、“伝説のディレクター”とも呼ばれています~

“伝説のディレクター”川村輝夫さん

――川村さんが京都放送に入社された頃のことを教えて下さい。
当時はまだフォークブームではなくて、最初に担当したのは音楽とは関係ないワイド番組でした。入社前からアメリカンフォークは流行していたので、まずPPMやジョーン・バエズ等のレコードをかける短い音楽番組を始めました。その頃、ブラザーズフォアとかキングストントリオの曲をコピーする学生バンドが現れ始め、自分でも大学時代からグリークラブに所属して、四条河原町近くにあった歌声喫茶「炎」に出入りしていたこともあって、地元のアマチュアグループの演奏を録音して週に一度流すような番組を作り始めたのが、入社して2、3年後やったと思います。

――関西ではどの様にしてフォークソングがブームになっていったのですか?
関西は東京の動きとは別で、最初は学生グループがアメリカのフォークをそのままコピーしてました。でも、歌う場所がないから、教会とかお寺とか、大谷ホールやYWCAの部屋を借りたり、中には社会問題研究会主催というのもあって、フォークは一種の社会運動だったと思います。世の不正義、矛盾、例えば戦争。ベトナム戦争の時代ですから、ベトナム戦争反対、北爆反対。ベ平連※の先頭にフォークグループが立って歌ったり。何か怒ってたんですよ、当時の若者たちは。デモもするし、歌も歌う。オーバーに言えばフォークは社会正義の歌で、社会や政府に抗議するプロテストソングは当たり前。それをユーモラスに歌った方がウケるから、コカ・コーラの替え歌を作ったり、ベトナム特需の社長に勝手なまねするなと歌った高石友也の「プレイボーイ・プレイガール」、高田渡の「三億円事件の歌」など、関西フォークと言えば毒のある、ユーモラスなものが特徴でした。
東京はマイク真木の「バラが咲いた」のように一種のラブソングで、ベトナム戦争は関係ない。フォークソングというのは3コードで終わる様な単純な旋律で、簡単に日常生活を歌ったものが東京から流れて来て、「ああ、これやったら俺らでも作れるわ」と思って作り出した。特に男の子は女の子にモテたいがためにギターを買って、グループでやるとハモれるし、ハモれると元気があるしで、広まって行ったと思います。

※ベ平連・・正式名称は「ベトナムに平和を!市民連合」。1965年ベトナム戦争に反対する無党派市民により組織された反戦運動団体。代表は作家の小田実。


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