橋本京子です。前回の続きです。
前回は,「6月18日(地震当日)の夜の時点で,翌日19日は京都方面の大学で1限は非常勤講師として心理学の授業をしなければならないことが確定していたから,早めに布団に入ったが眠れなかった」で終わりました。
翌6月19日の朝,睡眠不足のまま少し早めに起きてWebで調べてみると,阪急京都線が完全復旧していました。これでいつものルートで仕事に行ける! 同時に4限の授業があることもこれで確定しました(4限の授業をしている大学は,19日の授業は,いくつかの路線のうち2本以上に不通区間があれば授業しないということになっていました)。
夫と息子はまだ寝ていたので,起こさないようにそっと準備して7時前に家を出て,阪急京都線に乗りました。高槻を離れたくない,高槻に戻れなかったらどうしようという不安もありましたが,仕事だから行かねばならない。
京都に着くと,市バスなどはまったく普通に動いていて,変な感じがしました。ただ,京都でもヘリコプターの音は聞こえました。1限も4限も,授業内容はあらかじめ準備していました。もちろん用意していたのは”お勉強”です。ただ,今日だからこそしなくてはいけない授業がある,今日だからこそ,教員として学生に伝えねばならないことがある,と私は思いました。…昨日の地震のことです。授業の進度はどうでもいいと考え,最初の30分あまりをまるまる昨日の地震の話にあてようと思いました。もちろん私が体験した話でしか伝えられないのですが。
新聞もネットも見る心の余裕がなかったので,授業で説明するならせめて地震の概要だけでも,と思って,教員ラウンジにあった朝日新聞と日経新聞に目を通すと,我が家のすぐそこといっていいほど近所の小学校に避難している人の話,女の子の名前,現場の写真が掲載されていて,いたたまれなくなり,閉じてしまいました。犠牲になった女の子の名前を見ると,急にリアルなものとして悲しい現実がせまってきました。