先日、障害のある方の地域生活について、当事者の方々からお話を伺う研修会のファシリテータをさせていただきました。当日は障害福祉に携わる専門職を始め、大勢の地域の方にも来ていただきました。
少なくとも私が知る範囲では、私たちは「障害がある」「ない」で区別して考えがちです。「障害がある」を、「障害者手帳を持っている」だと考えると、「持っている」「持っていない」で区分することは容易ですが、実際は障害の有無は手帳の有無とはまた異なります。障害福祉サービス等の利用も、障害者手帳を持っていることは必須とはされていません。
「障害がある」と言っても、今の日本の社会では、そもそも障害については「社会モデル」が採用されていて、障害の有無は、従来の個人の心身の状況に障害は由来するものと考えた医学モデルではなく、障壁となる状況を作っている社会の側に原因があるものとして考えます。
私が参加した研修会では、当事者の皆さんがそれぞれの日常生活の楽しみや、困りごとをお話しくださいました。一人暮らしに向けて取り組んでいること、お仕事を頑張っていること、様々な活動をしていること、病気や心身の状態によってはとても辛いこと、労いの言葉がうれしいこと、突然後ろから声を掛けられると大きく驚いてしまうこと、などなど。
私はお話を伺いながら、「障害がある」とは一体どういうことなのだろうか?と考えました。このテーマはしばしば私の頭の中に登場するテーマでもあります。目の前で繰り広げられるそれぞれの日常生活のお話の内容は、私の生活の話と全く違うものではありません。別世界のものでもありません。それなりに仕事を頑張り、自炊を頑張ろうとし、あれこれ楽しい取り組みもあり、最近は年齢のせいもあるのか体が辛いこともあり、小さなことでも褒めてもらえるとありがたいですし、私はしばしば没頭していると呼びかけには応じないこともあります。似たような感覚になることはあり、みなさんのそれぞれのお話は、とても身近なものだと感じました。
もちろん、程度の差や、心身の状況によってはある部分は大きな違いがあるでしょう。例えば私には自力で移動する不便さは少ないです。段差も階段も上り下りができますし、30センチぐらいなら溝も飛び越えられます。運転が出来る程度には、視力も聴力も維持しています。
しかし、人間の存在は身体的健康だけによるものではなく、心や精神などいわゆる内面も大切なものです。喜怒哀楽について考えた時、「障害がある」かどうかというのは、私たちの前で、どの様な意味があるのだろうと考えこんでいます。
当事者のお話の中には、障害者は大変で辛いという客観的なイメージとは違い、とても楽しいとおっしゃる方もいらっしゃいました。社会で人とつながり充実した暮らしができていると、「障害がある」かどうかの問題でなく、人として楽しく満たされた暮らしが送れている状態だと言うことだと思います。
私は自分自身に障害がないかと聞かれると、答え方がわかりません。ないとは言い切れないからです。今のところ、仕事ができ、生活は自力でできていますが、それでも一人では困難なことは多いです。できないこともあります。日常の中で心身の状態により、上手にできないモノや事もある場合があります。ときどき生活は厳しいと感じる局面もあります。
当事者の皆さんの話を伺って、結局は、私が話を伺ったことは、心身に何らかの障害があるとされている方たちの、それぞれの日々の生活のお話を伺ったということだったのだろうと思います。「障害があるかどうか」という分け方が先にあるのではなく、大切なのはその人と知り合い、その人とお互いにわかり合うことなのだと思いました。
今年の4月から、事業所等における合理的配慮の提供が全面的に義務化になりました。合理的配慮とは、それぞれの状況と状態によって可能で合理的な配慮を行うことですが、そのためには、その人が障害者かどうかということよりも、何に困っていて、何を望まれていて、それに対してどうすることが可能なのかを個別に考えていく必要があります。合理的配慮は一律に決めて提供するものではありません。配慮がそれぞれの状態により変わるのだとすれば、私たちが社会の中でお互いに配慮すべきことは、相手の話を聞いて、知って、一緒に考えていくことだと思います。
お互いに理解したい、理解しようとおもって向き合い対話をすることで、共感できたり、なるほど!と感じたり、同じ地域社会に暮らす人同士はもっとわかり合えるものだと実感した機会でした。