「沈みゆくこの国へ」という共通テーマを与えられ、「とんでもなくとおくからとうてみる」という戯曲を書いたことについて、再考

イラスト:秋山ののの

書いていくのはとてつもなく憂うつだった。

愛媛県の都市部とは言えない集落に移り住んで七年がたつ。はじめに目に映ったものは心地よい刺激ばかりだった。それを選んで脳は日々の記憶を刻んでいた、と言っていい。遠くまで見渡せる稲田の波。平らな海のような稲田の向こうにこんもりと巨人が寝そべっているように見える林。

しかし数年すると見えるものは変化した。統一感のある焼杉の板壁の古民家集落は、建て替わるごとに素材がコンクリート、金属など入り混じり、モノトーンの灰色の家、原色の赤や黄色の屋根、それら統一感のない三角屋根や四角いビルが高さもまちまちに風景を汚していく。山の緑は産廃物と混ぜる砂利を削り出すための「リサイクル工場」という名目で大きくえぐられて灰色に変わる。緑一面だった山は醜く生皮をはがされていく。そのがれきの哀れな面積は年々山の頂に近づいていく。誰も使わないのか、スレートぶきの農業倉庫は田園とは相いれない灰白色の素材感で違和感を露骨にし、しかもそれが風雨の中朽ちていく無残。県道沿いの目立つ廃屋は、年々屋根が傾いていく。数年たつと瓦屋根に穴が開く。翌年には45度以上傾いた平屋がたくましい雑草に半ば埋もれていくその変化は、目立つところに放置せざるをえない村民の人間関係のうまくいかなさを顕示しているようでつらい。国道沿いに閉鎖して十年は過ぎただろうショッピングセンターが看板そのままに錆び、朽ち、色が褪せ、放置されている。そうした大きな商業施設、店舗がいくつも立ち並ぶ県道の運転は毎回少しずつ気分を滅入らせる作用を感じる。

風景のかわっていく様子は、数年も住むとその安定したペースが把握できるから、この先数年でどこがどう変わるのか、かなりの確度で予言が可能だ。その上、大きな商業店舗がまた今年二つ、三つと閉鎖されたのは私には予想できていなかった。私の予言はきっと甘い方向にバイアスがかかっていたのだ、と気づく秋だった。「空き店舗」「売り土地」と張り紙が出ているところはまだやる気を示しているから健康なのだが、もはやそれも朽ちて、立ち入り禁止を示す黄色と黒のロープも切れたままになったコンクリートの廃屋は、見通しと価値を失った財産として人に見捨てられたことを強く示すから、希望を打ち消された感情のようなものを、視覚から容赦なく浴びせてくる。

都会を離れて七年余り、過疎の町を見てきた。その間都会がどう変化したのかは体験が途切れたからわからないが、過疎の町は確実に都会の未来を示している。風景が容赦なく示す残酷は、おそらく、むつかしい理屈や細かい統計を示すまでもなく、住む人たちにはあえて話題にしてもらいたくない悲しみであるに違いない。思想の左右を問わず、どの人もおそらく理解している。私たちの市はもう長くない、と。その長さが自分の生を超える人は「もう勝手にしろ」とあきらめているようだし、超えない若い世代はおそらく考えないようにしているだけだ。日々の喜怒哀楽に胸や頭をいっぱいしているうちに日々は過ぎる。立ち止まって考えるのは、心身の健康に良くない愚行でしかない。

元気に話す人達に「空気を読め」と叱られるだけの上演になるのじゃないか。こんな土地で話題にしていいことと悪いことがあるだろう。…そういう感想しか思い浮かばない日々だった。それくらい、土地の人たちの体験は、真実で深刻なのだ。それに慣れたからあえて日々は感じていないだけで、陰惨なエピソードはそこかしこにころがっている。訳アリ物件。事件のいくつか。私の見たのはたかだか七年の変化だが、聞くと三十年間の変化はもっと激しく大きなもので、今見える建物の並びからは往時の賑わい、混雑はうそにしか聞こえない。私の感じている不安は、昔からの住人にはトンネルの入り口ですでに怖がっている幼児のようなものだ。トンネルの奥の方にいる彼らには甘く、ぬるい。

直視しないのが生きていくコツなのだろうか。直視しないで、陰惨なことしか待ち受けていない未来に次世代をほおりこんでしまう私たち親の世代は、もう逃れようがないのだから、しかしだからと言ってどう気持ちを整理して生きたらいいのだろう。

今回共通テーマを決めてしまってから、被害感情と同伴で日々を過ごしてきた。こんな書き物をなぜ今背負わないといけないのか。誰かともに感じている人と慰めあえないものか。しかし、書いて、舞台に出して、そして自分が演じる、というようなばかげた行動を予定している人は、当地では、当然見つけられなかった。

もう絶望をただただ口に出す作業にしよう。徹底した絶望は必要だ。徹底した絶望の表現というのは、意外にも新しい、今までになかった文学表現の位置に立つものだと言えなくもないのかもしれない。そうだ。そういう文学的な達成を目指すのが、今回の企画の私にとっての主旨だ。…そう考えて書き始めたのが第一稿だった。死にたいと思った人物が、ただ死ぬ、という筋は、意外と新鮮で目も当てられないみっともない物語という成果に至る気がした。

書ききってみたら、臆病者の私は、あまりにも単調な文脈に怯えた。作品としての統合に至っていない、と感じた。もちろん、書きあげた直後の怯えというのは歪んでいて、書き上げた自分に対して根拠もなく否定的に傾く時や、肯定が度を越える時や、様々だから、その時の自称「客観的判断」はまるであてにならないものだが、それにしても怯えはひどかった。筋に変化はいる。人物は物語の中でなにか変化しないとカタルシスなどありえない。カタルシスを提供できない創作物はただ迷惑な自己満足か、自己を慰める甘えた行動にすぎない。

創作物として成り立つために人物が希望を目指したくなる変化、を盛り込んだのが第二稿だ。それが発表した最終原稿にほぼなった。だけど、希望を人物に与えていいのか。そこに説得力はあるのか。現実を直視したうえで、なおかつ希望を目指したくなる人物がいたとしたら、どこからどう世界を見ることが必要なのだろうか。…希望のセリフを探しながら、そういう思考錯誤を脳内ではしていた。

果たしてどうなんだろう。私は生理的にギリギリのところで少し感覚がつかめた気がして、自分の第二稿をなんとか認めることにした。しかしそれは今も自分には課題だ。誠実な人間は、誠実に希望など語れるのか。めざせるのか。

ほんとうの友達は厳しいことを言える、という。ごまかしたやさしい言葉しか言わないのは距離をとった他人だ。そうじゃないのだろうか。いや私のこの創作はどうなんだろうか。まだまだ考えている。答えは次の創作で見つけないといけないのかもしれない。
(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)

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