「住民からの要望で、ある意味しかたなくやっている。」
数年前、自分の住む葛飾区内ベンチの仕切りについて、ある区議に尋ねたとき、そんな返事がかえってきた。
「役所が初めからそういうものとして、たぶん特に考えずやっている。議会で議論されたことはない。」
これはつい先月、別の葛飾区議に聞いたときの返事。
赤ちゃんは24時間寝て暮らす。病気で弱った人は寝た姿勢で体を休め回復を待つ。健康な人だって、毎日の睡眠時は寝た姿勢だ。
寝そべること。横になって休むこと。それは人間が生活する上での、明日の生活に向かう上での、欠かすことのできない大切な体勢であり、時間である。
それを奪う。それができないように、行政がわざわざ公共物に手を加える。
今や当たり前と思えるほど横行している、ホームレスを排除するためのベンチの仕切り。
でもそれって人命に関わるほどの、憲法違反の行為なんじゃないかと思う。
仕切りのついた排除型ベンチは、物理的に寝られないだけでなく、「ホームレスお断り」という地域の意思、その冷酷さを示すものだ。
川原に仮小屋を作り住んでた人たちが排除され、土手のベンチはみな排除型。最近自宅付近では、野宿の人を見かけなくなった。
ベンチの仕切りには悪意しかない。仕切りを見るたび、私は今、野宿の人たちを追い出した、何とも閉鎖的で醜く、冷たい町に住んでるんだな、て感じ、すごくいやな気持になる。
ベンチに仕切りをつける人は、つけてほしいと頼む人は、自分は生涯、外で横になる必要が生じないと、果たして言い切れるんだろうか。
宿のない場所で終電を逃したり、出先で具合が悪くなったりもしないと、言い切れるんだろか。
自分は100%ホームレスにならないと、本当に言い切れるんだろうか。
平塚の市議が、市に働きかけてJR平塚駅前のベンチの仕切りが撤去されたという記事を、新聞*で読んだ。市に住民からのクレームは届いておらず、「今まではホームレスは邪魔だったが、社会が高齢化する中、弱者の目線でものごとを考える人が増えてきたのでは」と、働きかけた市議の江口さんは感じてるそうだ。
それでもまだまだ一歩に過ぎず、平塚駅前の中心商店街には「排除ベンチ」しかないらしい。
たった一か所のベンチに仕切りがなくなった、ということがこんな大きさ(写真入り、四段抜き)の記事になる。そのこと自体が異常とも思うが、排除ベンチの排除への方向性が感じ取れる、嬉しいニュースだ。
『小山さんノート』**という本を今読んでいる。都内公園で暮らした野宿の女性が遺した約80冊もの日記が綴られたノートを、同じテント村に住む女性が中心となり、8年かけて書き起こし本にした、すごい本だ。
こんなくだりがある。
夜の町に出てみる。体力の限界を感ずるが、(中略)タバコがなかったので、駅近くの町の路で拾い、三箱にもなった。足をひきずりながら、十時近く、公園にもどる。横になりたい。眠れるものなら恐さ、寒さを忘れてぐっすり眠りたい。アベックや若い人が遊んでいる。噴水の近くのベンチで横になり、上着かけ。天上を見上げ、星の輝きに心休める。二時間近く眠りたいが、意識冴え軽く目をつぶっただけで寒く、体が痛くてダメだ。
2001年5月。この日この「小山さん」は同じテントで暮らす男性の暴力から逃れて外で過ごすしかなかったのだった。
公共のベンチで横になる。それはギリギリの状況に追い込まれた人が命を繋ぐための、最終手段。ベンチは最後のセイフティーネットだ。
平塚の動きや、冒頭に記した葛飾区議らの返事からも、現在の排除ベンチは、かつての住民の悪意が惰性で引き継がれているだけの気もする。
私の区も、是非そのことに気づき、仕切り撤去の方向に進んでほしい。区に要望を出してみようと思ってるところだ。
(*)2023年9月4日付東京新聞 「「排除ベンチ」優しく一新」
(**)小山さんノートワークショップ編『小山さんノート』(2023年、エトセトラブックス)