京成立石駅北口地区の再開発がついに始まった。
大好きな立石。知り合いに声をかけ、閉鎖間際の8月18日、ガイド付きの町歩き&飲み会を企画した。9人もの人が、遠くはつくばとか相模原とかから、この東京東端の小さな町を見に来てくれた。
ほとんどの店はすでに閉店。引越しも終え貼り紙だけになっている。その貼り紙からはどれも、この町への何とも言えない思いが伝わって来る。
最後の日まで営業を続けるとした「鳥房」前は行列ができ、すごい人だかり。みんな名残惜しくてしょうがないのだ。
昼でも暗い「呑んべ横丁」に差しかかる。ガイドは言う。
「ここは正式には「立石デパート商会」。かつてはもっといろんなお店があり、青線だった時期もある」。
人気の「江戸っ子」は閉まっていて、暗い店内にお店の人が座っていた。どんな気持ちなんだろう。ガイドは言う。
「立石はもつ焼とハイボールが名物で、この江戸っ子はその代表的な存在である。そしてなぜもつ焼かと言えば、その歴史は1920年代にさかのぼる。この少し先に荒川がある。荒川は東京低地の洪水対策で造られた人工の川。その川の工事には大勢の朝鮮人も動員された。「豚もつ」文化を持つ朝鮮人労働者の存在が、立石の「もつ焼」文化の源流となった。」
西側、旧赤線地帯へ。わかりにくい道を歩きながら「この道はわざとわかりにくくしたと言われている」とガイド(*)。そして言う。
「立石のハイボールは宝焼酎がベースとなる。それは戦後、GHQがウイスキーハイボールをもたらしたとき、ここでは高価なウイスキーのかわりに甲類焼酎を使ったことに由来する。」
店の多くが、たくさんの食器を「ご自由にお持ちください」と店先に並べる。いくつか物色して手提に入れる。
ガイドは言う。
「立石でお店やってる人の中には、浅草・上野あたりから、震災や戦災で焼け出されてきた人、山形や福島辺りから集団就職で上京してきた人が多い。」
再開発地域の北端、「水道道路」という道の手前に来る。ガイドは言う。
「この下に水道管が通っている。金町浄水場から都心へと、この水道管で水を運んでいるのだ。」
ガイドは、立石にはかつて、職安や血液銀行もあったと教えてくれた。
その後「仲見世」のある南側に回り、飲み屋に入った。
南側もこの先、再開発が計画されてる。
提灯の下がる「大衆酒場ときわ」というお店。総勢11人の我々のために、今までいたお客さんが出て行ってくれてしまう。瓶ビールを5本頼み(それがこの店のビールの在庫の全てだった)ガイドを囲んでまずは乾杯。
立石に通暁するガイドは、「TATEISHI」とプリントされたTシャツを着ていた。塔嶌麦太氏、28歳。10年前に私と一緒に目黒からこっちへ越してきた、出っ歯が気になる息子である。最近新聞に
「再開発計画への賛否で揺れていた立石に興味を持ち、変わりゆく街の中に自ら身を置きたいと思った。三年前から、駅北口の再開発地区内のアパートに住む」。
「再開発反対運動に加わり、市民団体の代表も務めた。計画は止められなかったが、活動の中で、この街で生きた一人一人のさまざまな人生や思いを知る。区史に載るようなできごとではなく、誰かが語り継がなければ忘れ去られてしまう「街の歴史や記憶」を少しでも記録していこうと思った」
と、いいとこどりの書かれ方(2023年8月21日東京新聞)をし、調子に乗る。
それで今、地域の人から聞き取りをしてそれを冊子にする活動をしている彼に、「反対運動はもうしてないの?」と聞いた。鼻穴を広げてガイドは言う。
「今してることが最大の抵抗なのだ。」
立石には、貧しい庶民のたくましさ、みたいなものが充満している。
今回改めて町を歩いて感じたのは、この駅前は労働者、貧しい庶民のための場所だった、ということだ。
駅前、という便利な立地を庶民のために開放してた、立石は弱者に優しい町だった。
その好立地を「一部の強者」のものにするのが再開発だ。区は「防災」を名目にしているけど、同じ立石でも駅から離れた、古い、木造のアパートや町工場が細い道の両脇にひしめく地域には、手もつけない(つけてほしいわけではない)。
最大の抵抗・・・。
ガイドの作る冊子、楽しみだナ。
(*)ところがこのガイドはウソだった! ガイドは言う(あとで)。
「申し訳ないけど違うらしい。赤線になる前から曲がりくねっていたという古地図があった。表通りから見えにくい場所だから赤線ができたという可能性はある。なので、できればこの俺のせりふ部分はカットしてもらえれば。」