地方の大学に通う息子と娘も帰ってきて1年ぶりに家族全員がそろった。元日は、恒例の畑の神さん参り。有機農業を始めた頃、子供たちがまだ幼稚園に通っていた。慣行農業からの転換期は、うまく野菜が育たなかった。農業技術の未熟さを神頼みで何とかしてもらおうというのが始めた動機だったが、そのうち、日本の原始信仰に思いが至るようになった。仏教伝来や神道の始まり以前の自然そのものを崇拝する精霊信仰のようなものと根差すところが同じではないかと思う。膨大な情報を集め分析し活用する人工知能。神仏の知恵にも迫る勢い、急激な気候変動をもたらしてしまう程の人間活動にどんな回答をしてくれるだろう。野菜工場という選択肢も有るだろうが、魂の宿った野菜に育つだろうか。成人した子供たちが何の疑いも無く畑の神様に手を合わせる姿を今年も見ることが出来た。
※京滋有機農業研究会 会長の田中真弥さんが無減農薬野菜などの宅配サービスの会員向けに連載しているコラム「こころ野便り」を当サイトにも掲載させていただくことになりました。掲載に当たって、田中さんが次のようなコメントを下さいました。
私が子どもの頃の話ですが、明治生まれの祖母は畑のことを「の」田圃のことを「た」と言っていました。京都弁なので「の~」「た~」と語尾が伸びます。漢字で書くと野と田ですが、祖母の口から出る言葉の響きが好きでした。祖父や祖母の若かった頃は、もちろん農薬や化学肥料の無かった時代ですから必然的に有機農業です。外来種の昆虫や植物も無く、日本古来の豊かな生態系の中で農業が営まれていたと思います。
「の」や「た」には、さまざまな生きものだけではなく「田の神」や「野の神」が居て、お天道様に手を合わせるように田や野にも手を合わせていたのではなかったかと想像しています。
私が農業を始めた頃は、田や畑は、ただの「土地」になってしまい、必然的有機農業だった頃のように野菜が育たなくなっていました。農薬や化学肥料の使用を前提とした農業技術に変わってしまったのです。
有機農業にもう一度転換しようとしていた頃、なかなかうまく野菜が育ちません。農薬の使用をやめ化学肥料を有機肥料に変えただけでは野菜はうまく育たないのです。技術的な未熟さが原因であることは明らかなのですが、どうすれば良いかがさっぱり分かりません。こんな時は神頼みとお正月に畑の神様をお祀りすることにしました。
「お正月」は、その事に関しての今年の様子です。「こころ野」とは、ただの土地ではなく、魂の宿る畑をイメージした造語です。「こころ野便り」は、そんな畑での出来事や百姓の想いを消費者に伝えたいと書きはじめました。