日本学術会議への政府の介入をめぐる問題について、昨年末の記事も含めて、カナリア倶楽部で何度か取り上げてきています。通常国会が始まりましたが、今国会中に日本学術会議法の「改正」案が審議される見込みと言われています。法案は未公開ですが、その方向性については12月6日に内閣府より公表されています。
そして日本学術会議は政府方針の再考を求める声明を12月21日に全会一致で議決し、その説明資料とともに日本学術会議のwebサイトで公表しています。そしてこの日本学術会議の声明に対して、文系・理系を問わず、国内の多くの学協会が賛同する声明を出しています(政府の方針、学術会議の声明、賛同している学協会のリストは、日本学術会議のwebサイトから見ることができます)。
さて、Twitterなどでは一部、「日本学術会議法改正に反対しているのは文系の学会で、文系の学会は理系の学会の足を引っ張っていて、梶田会長も苦慮している」という主張があるようです。しかし実際には、多くの理系の学会も日本学術会議の声明に賛同しています。それは当然のことで、政府方針は「学問・学術」というものの本質と相容れないのです。日本学術会議の梶田会長は、一般の市民の皆さん向けのメッセージを出しています。
梶田会長のメッセージにもあるように、学術と政治・経済や役割も性格も異なっています。学術は様々な問題の解決について、多様な選択肢を提示することを得意とし、ある意思決定がもたらす多面的な影響について多角的長期的な分析を行ったりします。別の言い方をすると、「これが正しい答えだ!」、「この道しかない!」という決定とは相いれないのです。
政治や行政、経済界は、問題に向き合う都度都度に、「この道で行こう」と決めて実行する必要があるでしょう。
しかし学問は、「Aという道の他に、BもCもある」とか、「Aが有力と思われるが、Xという副反応が予想される」とか、「Aが有力かもしれないが、どのような副反応があるかは未知数である」ということを示していくのが仕事です。
そして何かに決まった後にも、「本当にこれで正しかったのか…?」と、問い続ける役割も担います。
つまり、人々をモヤモヤさせることこそが、学問・学術の仕事と言えます。
そして私たち一人一人の市民には、モヤモヤする権利があります。何らかの形で決めて進まざるを得ないとしても、「本当に良かったのかな…」と迷う権利があります。それを封じられて、「この道しかないのだ!」と思うように(有形無形の圧力で)強制されるのは違うのではないでしょうか。
さて、上述の政府の方針は日本学術会議に対して、政府と問題意識と時間を共有することを求めています(人事に介入させることも求めています)。しかし、政治・行政と学問は役割分担が異なるのですから、それは無理な話です。
政治・行政が学問を活用するのは構わないし、政治・行政と学問・学術との対話はあって良いでしょう。しかし、同じ意識と時間を共有するということはあり得ません。
もしもそんなことになったら、学者・研究者だけではなくすべての人の、「モヤモヤする権利」が失われてしまいます。
———————————————