ロシアのプーチン大統領は10月19日、ロシアが一方的に併合したウクライナ東・南部の４州（ルハンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソン）を対象として戒厳令を発令しました。これはどのようなものなのでしょう？それはまた、今後の戦況にいかなる影響を及ぼすのでしょうか？
戒厳令を簡単に説明するなら、当該地域を戦争状態にあると断定し、秩序を導入すべく全権を軍に移管する法律です。市民の自由や諸権利は事実上停止され、人々は軍の命令に従うことが求められます。具体的には夜間の外出禁止、集会の禁止、移動・通信の制限、必要に応じ私的財産の接収、軍への協力、居住地の強制移動等々が定められています。
戒厳令はロシア憲法87条2項に規定されています。また３項に基づき、2002年1月30日に「戒厳令に関する憲法的連邦法」（要するに戒厳令の細目を定めた法律）が制定されました。詳しくは水島朝穂氏（早稲田大学法学学術院教授）の以下の記述をご参照下さい。
つまり、この４州が軍政下に入り、戦場になるということでしょうか？
プーチン大統領が10月19日のスピーチで述べたように、この４州はロシアに併合される以前、すでに戒厳令下にありました。ロシア領となって改めて戒厳令が敷かれたわけですので、住民にとって生活が一変するほどのインパクトはないように思われます。ただ、戦争の激化は避けられない情勢でしょう。戒厳令の発令により、平時ではないことを宣言したわけですから。さらに住民に対しては、安全地帯への移送を名目とした強制連行や、兵隊としての動員、反ロシア派分子への徹底的な弾圧が行われる懸念も高まっています。
他方、10月21日以降、ヘルソン州西部からロシア軍が撤退しているとの情報もあります。また、同州の親ロシア派当局も、州都ヘルソン市の住民に対し、直ちに避難するよう呼びかけていると報じられています。これがウクライナ軍の反転攻勢による退避なのか、それとも別の意図があってのことなのか、何か不気味に思われます。
不気味とは？
この地域に戒厳令を発出したということは、繰り返しになりますが、戦場であることを認めたわけです。それなのに住民ばかりかロシア軍まで撤退するのが腑に落ちないのです。何か戦術的意図があるのではないかと勘ぐってしまいます。まさかとは思いますが、ロシア側が撤退した場所へウクライナ軍を引き入れ、戦術核を使うなどという途方もないことを考えていなければいいのですが……。これが杞憂であることを願っています。
核を使えば、NATOも黙ってはいないでしょう。ロシア対NATOの戦争が現実化してしまいませんか？
いくら常軌を逸しているプーチン政権とはいえ、そんな勝ち目のない戦に突入するつもりはなかろうと思いますが、戒厳令以外にも、もう一つわたしが懸念していることがあります。
それは何ですか？
戒厳令の発令は、大統領令第756号ですが、これに続けてプーチン氏は、大統領令第757号を出しているのです。正式には「2022年10月1日付大統領令756号に関連してロシア連邦構成主体で実施される諸措置に関する大統領令」という長い名称の大統領令です。こちらのほうは日本のメディアであまり注目されていませんが、ウクライナ４州の戒厳令以上に不気味なのです。
それはどのような大統領令なのですか？
ウクライナと国境を接しているロシア領は「中程度の対応レベル」、首都モスクワやその周辺、南部一部地域は「厳戒態勢」、その他の地域は「基本的な準備態勢」と定め、それぞれの地方自治体の首長に対し、危機管理の方策をとるよう命じているのです。以下のサイトの色分けされた地図をご覧下さい。
この大統領令第757号は全9項から成りますが、その第7項には大略次のように書かれています。「ロシア連邦構成主体の首長（つまり地方自治体のトップ）は作戦本部を創設すること。作戦本部にはロシア国防省、内務省、民間防衛・非常事態・災害復旧省、連邦保安庁、国家親衛軍庁などの代表が含まれる云々。」
要するにプーチン大統領は、ロシアの地方自治体を通じて、全土をじわりじわりと戦時色に塗り替えようとしているのです。ロシア国民に対してはいまだに「特別軍事作戦」と言いつくろいながら、その裏で、着々と戦時体制への移行を準備しているのではないか。わたしにはそのように見えてしかたないのです。
なお、ご参考までに付記しますと、ロシア大統領令第756号と757号の邦訳が、次の日本外務省情報サイトに掲載されています。ご参照下さい。
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河原地英武＜京都産業大学外国語学部教授＞
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもあり、東海学園大学では俳句創作を担当。俳句誌「伊吹嶺」主宰。