タイトルを少し変更しました。前回までは「宗教2世と霊的虐待」でしたが、「問題」を入れました。2世だけが困っているわけではないですし、3世や4世、5世も宗派によってはいるからです。また自分のことも、「宗教2世」ではなく「宗教2世問題当事者」と自称することにしました。今回のことでいろいろと勉強し、また改めてこれまでを振り返ったりすると、「私は3世だな」と思うことが多々あるためです。
前回と前々回の記事では、タイトルのうち「宗教2世」の説明が中心でしたが、今回は「霊的虐待」について、自分の経験を中心に書こうと思います。霊的虐待とは、優位な立場にある人(例えば親)が、劣位な立場にある人(例えば子ども)に対して、「(自分の言うことに従わなければ)地獄に落ちる」、「天罰が下る」、「(お前のせいで)先祖が苦しめられる」といった脅しを行うことです。宗教的虐待の1種であり、主に言語による精神的虐待の1種ともいえます。
さてこの霊的虐待ですが、受けたことのない人にはバカバカしい話かもしれません。「地獄だの天罰だの、中世じゃあるまいし…」と思う人も少なくないのではないでしょうか。しかし実際には、これを受け続けると、相当程度の恐怖感が植え付けられるものです。
霊的虐待を実行している側は、「正しいこと」を教え諭しているつもりです。場合によっては実行している側も、霊的虐待の被害者だったりします。私自身もこれを受けて育ちましたし、母も同様です。
霊的虐待の後遺症による得体の知れない恐怖感を克服するのは、結構大変でした。「科学的、実際的、論理的に考えればあり得ないこと」だと、アタマでは十分に理解していても、恐怖感は残るのが厄介でした。自分で言うのも変ですが、職業柄私は、論理的思考力や科学的・学問的思考力が平均的な日本人より高いと思いますし、それらを伸ばす訓練も徹底的に受けてきました。けれども霊的虐待の後遺症は、それらでは克服できませんでした。
私がその恐怖感に追い詰められたのは、母が「~しないといけない」という事柄を、やろうと思えばできる経済力等を得られた後でした。それまでは、「そんなこと言ったって、大学行かなきゃどうしようもないじゃない」、「就職しなきゃどうしようもないじゃない」、「奨学金返さなきゃ、どうしようもないじゃない」で向き合わずにこれたのですが、そうはいかなくなりました。でも、母が「~しないといけない」と言うことに従うのは絶対に嫌でした。でも、そのために恐ろしいことになるのも(当然ながら)嫌ですし、恐ろしいことが起きないという保証もない。
どうしたらよいのだろうか…と思い詰めて結局、坐禅をしようと思い立ち、現在に至ります。ちなみに、なぜ坐禅をしようと思ったのかは謎で、縁があったとしか言いようがありません。田舎育ちなので、祖母が比較的新しい宗教に入れ込んでも、伝統仏教との檀家づきあいは継続する必要があったという点は、都会とはだいぶ違っていたのだと思います。
さて、苦しんでいる宗教2世や3世の方々の悩みの中には、一般の方には理解しづらいことが少なからずあるのではないかと思います。そんな場合についても、「霊的虐待」という観点から考えると、理解できることもあるのではないでしょうか。心の問題・傷の克服自体は、本人がその方法も含めて模索するしかないところはあるのですが(私はたまたま坐禅が効きましたが、誰もが坐禅すればよいとは思いません)、周囲の人の理解があれば、安心できることも多々あります。
ついでに。母にはいろいろと、困らされてきたのではありますが、やはり母も被害者なのだなあ…とは思っています。ただ母自身も、自分が受けた心の傷には、自分で向き合ってもらうしかないのでもあります。この点については、回を改めて書こうと思います。
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