京都に戻って来ると地元の農協の青年部は解散し、青壮年部となり年齢層が上がっていた。私が最年少のままで、その後就農する若者は無かったし、その先もしばらく無かった。思うに、その頃農業をしていた青年は、親父の従順な助手の様だった。青年部での集まりや活動は、農業青年の息抜きの場であったように思う。高度成長期も終わり食料にも困らなくなったし、都市近郊の農家は、農業以外の収入の有る家も増えてきた。親の言う通りにしていれば将来困る事は無いと思っていたのかどうかは定かではないが、それが嫌な者は、家を離れ農業からも離れていった。若い農家が集まってもあまり野菜作りや将来の農業についての話は、ほとんどしたことが無かった。やる気満々で帰って来たものの、有機農業について白熱した議論や夢を語る場が無く物足りなかった。父も有機農業に対しての理解は無く、葛藤の日々は続いた。父の仕事は丁寧で、育てた野菜は中央市場では高く評価されていた。評価の基準は、傷一つなく大きさの揃った野菜を芸術的な荷造りをするという事と、それを出来るだけ安定して出荷する事。その為に、農薬や化学肥料は、欠かせない。よく効く農薬とすぐ効く肥料に関心が向いていた。偉そうな事を言ったものだと今になって思うが、「お父さんは、農薬ばっかりに頼ってんと野菜に何で虫が着くのか、何で病気のなるのかその原因を考えた事が有るか」と言った。「俺を見くびってんのか」とえらい剣幕で怒鳴られた。それを見ている母は、毎日何時大喧嘩になるかと気が気では無かったはず。心配を掛けたものだ。
京滋有機農業研究会 会長の田中真弥さんが無減農薬野菜などの宅配サービスの会員向けに連載しているコラム「こころ野便り」を当サイトにも掲載させて頂いています。前回はこちら。