9月11日、安倍首相(当時)は「安全保障政策に関する談話」を発表しました。
首相が持病悪化のため、国民の「負託に自信をもって応えられない」と辞任を表明したのは8月28日。そして、これからは「一議員として、新体制を支えていく」と述べ内閣の総辞職を行ったのが9月16日です。同日、菅義偉氏が首相就任にあたっての記者会見を行っています。すなわち安倍氏は事後を新内閣に託し、自らは首相を退任する直前に、重要な政策談話を公表したことになります。何か唐突で、不可解な印象を受けたのですがいかがでしょう?
たしかに異例、というよりは異様ですね。将来の政策指針については新内閣に委ねるべきで、それを拘束するような発言を退任する者が行うのはどうかと思います。その点は記者会見でも質問が出ました。この談話は「次の内閣を縛ることにはなりませんか」との疑問です。安倍首相はきっぱりと否定しましたが。
やはり訝しく感じるほうが普通ですね。とすると、安倍氏の談話の意図は何だったのでしょう?
「敵基地攻撃能力」の問題など、いわば宿題をやり残したまま不本意な形で退任するわけですから、その議論が中断されることはないこと、次期内閣においても継承されることを国内外、特に米国に公約し、疑念を払拭したかった、というところが一般的な理由でしょう。しかしわたしは、安倍氏個人の執念のようなものを感じ取りました。
と言いますと?
たとえば防衛大臣という要職に、安倍氏の実弟である岸信夫氏が就任しましたが、この人事に安倍前首相の意向が反映されていることは間違いありません。岸氏はそれまで政治家として格別実績のあった人物ではありませんから。安倍氏としては、安全保障問題は祖父である岸信介以来、一族が前進させなくてはならない最大課題であるとの認識があるのではないでしょうか。首相退任後すぐに靖国神社を参拝したことも何事かを語っています。これは戦没軍人を祀る神社ですから、安全保障問題に対する誓いを新たにしたのだろうとわたしは見ています。つまり内閣は替っても、安全保障に関する「安倍路線」は堅持するとの強い意志が、このような談話という形をとったのだろうと考えます。
なるほど。で、その談話の内容についてはいかがですか?
実は政策に関しては、あまり具体性を帯びたものではありません。「敵基地攻撃能力」などの文言もありませんし。今年末までに「あるべき方策を示」すと予告するにとどまっています。
むしろわたしは、この談話の終わりの部分に注目しました。すなわち「我が国政府の最も重大な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の生命・身体・財産、そして、領土・領海・領空を守り抜くことです。これは、我が国が独立国家として第一義的に果たすべき責任であり、我が国の防衛力は、これを最終的に担保するものであり、平和国家である我が国の揺るぎない意思と能力を明確に示すものです」という箇所です。これはまるで、政府の最大の仕事が国防であると宣言しているようなものです。
その何が問題なのですか?国家が外部の脅威から国民を守ることに力を注ぐのは当然ではありませんか?
たとえ話をします。われわれが家を建てるとき、いちばん大事なのは防犯である、と述べたら違和感をおぼえませんか。もし住宅販売会社や建築業者が「我が社が家を建てるにあたって最大の責務としていることは、そこで暮らす家族の生命や財産を犯罪者たちから守ることです。強盗や犯罪者から家族を守るための防犯対策とセキュリティーこそが住宅建設における最大の課題です」と宣伝したら、ちょっと異常だとは感じませんか。万全の防犯対策が不可欠であることは論を俟ちません。しかし、それを前面に出してアピールすることは尋常でありません。安倍氏の談話は「国防国家」宣言と受け取れなくもないのです。まるで戦前戦中の翼賛体制を思わせるような表明なのです。
それだけ日本を取り巻く安全保障環境が厳しいということではありませんか?
たしかに談話では「北朝鮮は我が国を射程に収める弾道ミサイルを数百発保有しています。核兵器の小型化・弾頭化も実現しており、これらを弾道ミサイルに搭載して、我が国を攻撃する能力を既に保有しているとみられています」と指摘されています。そして、「このような厳しい状況を踏まえ、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、何をなすべきか」と畳みかけられたら、国民の多くは「やられる前にやるしかない!」「われわれも核を持たねばなるまい」という方向へ引っ張られてしまうかもしれません。
それはちょっと物騒ですね。
幸い菅内閣総理大臣記者会見の内容は穏当なものでした。
しかしこの内閣の背後に、安倍首相談話に見られた「国防国家」建設への意志が働いているとしたら不気味なことです。すでに防衛省は来年度予算の概算要求で、史上最大となる5兆4000億円を計上していますが、年末に打ち出される新しい安全保障戦略と併せ、菅政権の今後の防衛政策から目が離せません。
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