ウクライナへの侵攻開始から1年を目前にした2月21日、ロシアのプーチン大統領が年次教書演説を行いました。本来は毎年1回行うべきものですが、昨年は事態の急変を理由に取りやめられたため、2年ぶりの演説でした。それを聞いてどのような印象をもちましたか?
約1時間45分の長い演説でしたが、その内の3分の1はウクライナ戦争に関する内容で、しかも欧米(主として米国)への批判と自己正当化に満ちたものでした。
その言説を要約すれば次のとおりです。「ロシアはぎりぎりまで平和的解決を目指していた。しかし米国はわれわれを欺き、ウクライナのネオナチ政権を焚きつけ、着々と戦争準備を進めていた。これはソ連の崩壊以来続いていたことで、彼らはロシアの『戦略的敗北』を一貫して求めているのだ。1930年代にも欧米はドイツのナチス政権をけしかけ、ソ連をつぶそうと試みた。19世紀にも欧米列強は帝政ロシアの敗北を目指していた。われわれは今日、ウクライナと呼ばれている地域の同胞たちを守らねばならない。歴史的にも祖国である地域に暮らす人々を、米欧とその傀儡であるウクライナ政権の攻撃から断固守ることがロシアの使命なのだ。」ざっと、こんな内容です。
われわれからすれば、あまりに強引、というより無茶苦茶な主張のように思われますが、ロシア人はこれに納得しているのでしょうか?
世論調査によれば、ロシア国内の大統領支持率はコンスタントに約80%を維持しています。多少割り引いたとしても、国民の過半数が大統領の政策を受け入れているとみていいでしょう。われわれにとっては、この戦争は何の大義名分もない侵略以外の何物でもありませんが、一つの前提(一番大事な前提ですが)を取り除けば、ロシア人の心情は案外わかり易くなるかもしれません。
どんな前提ですか?
歴史的な背景はどうであれ、ウクライナは国際社会が承認し、国際法が保証しているれっきとした主権国家であって、その主権は誰も犯すことはできない、という前提です。しかし、この「主権国家」であるという前提を取り除いたとしましょう。するとプーチン氏の理屈は筋が通ってしまうのです。
つまり、こういう理屈です。ウクライナは歴史的にずっとロシア固有の領土であった。ソ連時代は「ウクライナ」と呼ばれる地方自治体になった。それをソ連崩壊の混乱時に、米国等の西側諸国が「主権国家」に仕立て、独立させ、ロシアへの攻撃基地に変えようと画策した。そして「ウクライナ」領に住んでいるロシア住民を虐待し、辱め続けているのだ。われわれは同胞を救わねばならない、という理屈です。
そんな理屈が通るのでしょうか?
ロシア人の心情を疑似体験してもらうため、一つ日本人にもわかり易い極端なたとえ話をします。北方領土は日本固有の領土で、現在、ロシアに不法占拠されている、というのが日本政府の立場です。いま北方領土に日本人はいませんが、仮にここに数千人の日本人が取り残されているとしましょう。そしてその日本人たちがロシア政府と地元行政府により長年屈辱的な扱いを受け、ついには生きる権利すら奪われようとしている。そして日本政府に救援を求めてきたとします。そこで、ひそかに自衛隊が「特別軍事作戦」を練り、彼らを救い出すべく北方領土に上陸したところ、ロシア軍から反撃を受け、ついには両国間の戦闘が始まってしまった。その場合、「北方領土は日本の領土だ。そこに住む同胞を虐待から救うため、自衛隊が入って何が悪い」という世論がひょっとして起こるかもしれません。国際法などに全く関心のない一般ロシア人はそんな認識なのだと推察します。
しかしウクライナへの侵略でロシアは国際社会から総スカンを食い、経済制裁を科せられ、戦争による死傷者もうなぎ上りです。ロシア国内もガタガタなのではありませんか。それでもプーチン政権を信じられるものなのでしょうか?
今回のプーチン大統領による年次教書演説は、その疑問への回答と見なすことができます。実は演説の大部分は、この1年間のロシア経済の振り返りと今後の展望に費やされています。そして、そこではかなり明るい展望が語られているのです。
GDPはたしかに低下したが、二けたのマイナスになるとの見方に反し、マイナス2.1%にとどまった。むしろロシアに経済制裁を行った国々のほうがひどいことになっている。ロシアは1年前まで資源を輸出することによって外貨を得、欧米に依存する国であった。しかし制裁があって、却って国内産業が強くなり、内需が拡大している。
ロシアには友人が多い。欧米に依存しなくとも、カザフ、モンゴル、中国、東南アジアなどと経済連携は着実に進んでいる。ロシアの対外ビジネスも順調に伸びている。ボルガ・カスピ海運河の開通により、インド、イラン、イラク、パキスタン、その他中東諸国との経済協力のルートも確保した等々といった内容です。
さらにIT関連の先端技術、教育、文化政策、ツーリズム、エコロジー、子供やその家族への手当てといった諸問題についても論じ、戦時経済の切迫感はなく、むしろ平時であることをアピールしているかのようです。国外に脱出したロシア人にも呼び掛け、君たちはその国でも見下される扱いを受け、所詮は利用されるだけだ、それより祖国の発展に寄与したほうがよいという趣旨のことを述べています。
最後に新STARTの参加を一時的に停止すると表明しましたが、これは米国との核軍拡競争になっても負けないとの意思表示であり、米国への挑戦とみていいでしょう。ロシアは当初から米国に対する敬意はありませんでしたが、この演説では恐れすらなくなっている感があります。ロシアも米国も来年は大統領選挙を迎えますが、何やらプーチン氏には余裕すら感じられる演説だったように思えます。われわれはこれを虚勢とばかりみては、実情を見誤るのではないかと危ぶみます。プーチン大統領の自信の源を今後さらに冷静に分析する必要を感じています。
—————————————
河原地英武<京都産業大学外国語学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもあり、東海学園大学では俳句創作を担当。俳句誌「伊吹嶺」主宰。