ロシアのプーチン大統領は9月30日、クレムリンで演説を行い、ウクライナ東・南部の4州(ルガンスク、ドネツク、ザポロジエ、ヘルソン)をロシアに「編入」すると宣言し、その後、4州の代表とともに「編入」の条約に署名しました。このようなことがまかり通ってしまうのでしょうか?
この「編入」が茶番であることは論を俟ちません。国際法的にも無効です。そもそもある地域の分離独立を決めるためには、当事国(この場合はウクライナとロシア)間の合意が必要です。また住民投票にしても、ロシア軍が一方的に侵略し、その軍事力を背景に押し付けた「投票」ですから、市民の発意とは程遠いものです。住民の87~99%がロシア編入に賛成したとのことですが、これらの紛争地域にどれほどの住民が残っていたのか。また、残っている住民に対しても、武装した兵士が戸別訪問して、編入賛成を強要したとの証言もあります。
ですから大統領が宣言したのは、これら4州の「編入」などではなく、力による一方的な「併合」だと言わなくてはなりません。とはいえ、こうした既成事実が作られてしまうと元に戻すのは非常に困難です。クレムリンの広間におけるプーチン氏の演説と、それに聞き入り、時々拍手をするロシアの議員たちの映像をみると、ロシア側の梃子でも動かない決意のようなものが伝わってきて空恐ろしくなります。
以下の映像付サイトは、ロシア大統領府のホームページに掲載されたものですが、歴史的記録として紹介しておきます。すべてロシア語ですが、プーチン氏の表情や会場の様子から、ある種の雰囲気が伝わってくるはずです。演説時間は約37分です。
映像を見ますと、調印式のあと皆が直立不動でロシア国歌に聞き入り、その後にプーチン大統領が4つの州の首長たちとしっかりと手を重ね合わせ、人々の歓声も上がり、何やら大変ドラマチックですね。ラブロフ外相の姿も見えましたが、だれも後ろめたさを感じないのでしょうか?
後ろめたさを感じる人はここに集まっていないでしょう。ここにいる人々(大部分が議員たち)は、この「併合」に一点の疑念も抱いていないと思われます。大統領演説が、彼らの「正当性」を代弁していると言っていいでしょう。
どんな「正当性」があると言うのですか?
プーチン氏の演説から、その「正当性」の論理ないしは理屈を抜き出してみましょう。
まずは、この4つの地域がロシアに編入されるのは数百万の人々の意志であり、これは国連憲章の第一条で保証されていると主張しています。これは紛れもなくロシア領の一部であって、帝政期以来、先人が守り抜いてきたものであり、2014年にも、自らの言語、文化、伝統、宗教を守るために人々が命を捨てて戦ってきた領土であると述べ、戦いのために命を落とした人々に対し、1分間の黙祷を捧げています。
ソ連の崩壊に関しても言及しています。すなわち、ソ連の解体が人々の連帯を断ち切ってしまった。しかし、過去を振り返るのはよそう。ソ連はもう存在しないのだから、と述べ、ソ連の復活を試みているのではないと論じています。ただし、言語、文化、伝統、宗教を同じくする人々の、ロシアへの復帰の決意は固く、彼らはウクライナ政権のあらゆる横暴や脅しに屈せず自らの意志を表明したのであり、彼らは永久にわれらの国民になったことをウクライナ政府と、彼らの「主人」である西側のリーダーたちは理解せねばならないとプーチン氏は唱えます。
そしてウクライナ側に対し、軍事行動をやめ、交渉のテーブルにつくよう呼びかけています。つまり交渉に応じれば、この4州の引渡しはあり得ないものの、ロシアはこれ以上の領土拡大を望まないと言いたいのでしょう。
そのあとはNATO、とりわけ米国への批判が延々と続きます。世界で最初に核兵器を用いたのは米国であること(広島と長崎の名を挙げています)、その後も米国は欧州や日本などの西側諸国を隷属状態に置いていること、そして西側の国々にしても、ロシアをパートナーと呼びながら、本心ではロシアを自分たちの植民地と見なし、その崩壊をずっと願ってきたことを指摘するのです。しかしロシアは決してそれに屈することなく、祖国防衛のためにはあらゆる手段を用いるだろうと述べ、核兵器の使用もためらわない姿勢を示したのでした。
つまりプーチン氏の言い分は、ロシアはあくまでも被害者であって、ウクライナとの戦いは奪われた領土を取り戻すことが目的だというものです。
ロシアの行動は主権国家であるウクライナへの侵略にほかならないことがロシア人には分からないのでしょうか。
分かる人々は政権を批判し逮捕されたり、(徴兵を恐れて)国外への脱出を図ったりしているわけですが、それでも世論調査によればプーチン政権の支持者が今でも77%はいます。彼らはプーチン氏の「論理」に共鳴しているのでしょう。ちなみにプーチン大統領は、調印式が行われた日の夜、「赤の広場」で国民に向けて5分ほどのメッセージを送っています。こちらはもっと簡潔にプーチン氏の思考を伝えています。
にこやかに「ウラ―(万歳)」を唱える民衆の映像を見ると暗澹たる気持ちになります。結局のところ、こうした「既成事実」が固定化されてしまうのでしょうか?
ゼレンスキー政権は、ロシア側の停戦交渉の呼びかけに応じるつもりは全くないようです。あくまでも徹底抗戦の構えです。しかし併合された4州における戦闘行為は、ロシア領土への攻撃と見なされ、プーチン政権の核使用を招く恐れがあります。とすると、米国をはじめとするNATOは、その事態を回避すべく、ウクライナ側の自制を求める公算が大です。ロシア軍も疲弊し、ウクライナ東部の要衝から撤退していますし、ウクライナ軍にとっては今がまさに失地回復のチャンスなのでしょうが、それもNATOの軍事支援次第です。果して核戦争のリスクを冒してまで欧米がウクライナを助けるのかどうか。それが今後の注目点になりそうです。
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河原地英武<京都産業大学外国語学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもあり、東海学園大学では俳句創作を担当。俳句誌「伊吹嶺」主宰。