北京オリンピックが始まり、テレビ番組などもオリンピック競技の報道が非常に多くなりました。昨年の東京オリンピックも含めて、オリンピックそのものの意義やあり方についての問題や、利権をめぐる問題などが指摘されたりしていますが、それでも報道がこれだけ盛り上がるのは、やはり視聴者が熱狂するからなのだとは思います。競技スポーツの観戦は、確かに多くの人を楽しませてくれます。なぜでしょうか?
「勝敗がわかりやすい」ということが、理由のひとつではないかと思います。スピードを競う競技であれば、速いものが勝者です。国や地域の違い、言語や文化、信仰の違いなど、全く関係ありません。だからこそみんなで、「頑張れ!」、「すごいぞ!」と盛り上がることができるのだと思います。
フィギュアスケートのような、少し複雑な競技もあります。スピードスケートとフィギュアスケートの違いは、前者が速度のみを基準に勝敗が決まるのに対して、後者はより複雑で多くの基準(技術の高さ、演技の美しさ等々)が使われるところにあります。フィギュアスケートのような競技の評価は、ルーブリックというものを使います。ルーブリックとは、縦に評価の観点(規準)を並べ、横にそれぞれの観点の達成度(基準)を並べた一覧表のことです。詳しくはこちらの解説をご覧ください。
フィギュアスケートであれば、縦に「ジャンプ」、「ステップ」、「音楽との調和」、「演技の美しさ」などの評価観点が並び、それぞれの観点についての達成度(「5非常に優れている」、「4優れている」、「3普通」…など)が並びます。それぞれの選手の演技はルーブリックに照らし合わせて評価され、観点ごとの点数を合計した値をもって勝敗が決まります(実際のフィギュアスケートのルーブリックはもっと複雑で、しばしば変更もされるようです)。ルーブリックは、複雑なパフォーマンスを評価して、必要に応じて点数もつけることができる便利なツールです。
さて、スピードだけを競う競技に比べれば、フィギュアスケートのような競技は複雑とはいえ、それでも私たちの実際の生活や仕事、子どもたちの学びや育ちとは全く異質なもので、「著しい限定状況」と言えると思います。スピードだけがものを言う競技に比べると多様性があるように見えます。実際に、ジャンプが得意な選手やステップの美しい選手などの個性があります。しかし、アイスショーやエクスビションに比べれば、非常に均質な世界で、どの選手も同じような演技をしています。
競技スポーツはそれでも良いのでしょうが、私たちの生活や仕事、子どもたちの学びや育ちが、競技スポーツを観るのと同じ視線で見られるとすれば、どうでしょうか? なんだか怖いような事態にならないでしょうか? 実際のところ、学校や子どもたち、そして教師たちを、そのような世界観で扱う動きが強くなってきています。次回以降の記事で詳しく見ていこうと思いますが、本日はこちらの記事をシェアさせていただきます。福嶋先生のご指摘には強く頷かされるところです。
評価研究者の端くれとしていくつか。
1、数値評価は独り歩きする。
2、評価項目は評価主体にも評価対象にも内面化する。
3、評価できないものは評価されない。評価できないものの方が大事なことも多い。
4、評価は1度導入すると廃止が難しい。 https://t.co/widKTOwant— 福嶋尚子to子どもが排除されない学校に (@to00556874) February 9, 2022
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西垣順子<大阪市立大学 大学教育研究センター>
滋賀県蒲生郡日野町生まれ、京都で学生時代を過ごす。今は大阪で暮らしているが自宅は日野にある。いずれはそこで「(寺じゃないけど)てらこや」をやろうと模索中。老若男女、多様な背景をもつ人たちが、互いに互いのことを知っていきながら笑ったり泣いたり、時には怒ったりして、いろんなことを一緒に学びたいと思っている。著書に「本当は怖い自民党改憲草案(法律文化社)」「大学評価と青年の発達保障(晃洋書房)」(いずれも共著)など。