子どもへの体罰に関するニュースを、ここ数年よく目にする気がする。私の記憶力が落ちているだけで、以前から変わらぬ頻度であるのかもしれないし、そうではないのかもしれないが、最近もまた連日報道される出来事があった。
教育現場での体罰が、ゼロにならない。なぜだろうか?
社会福祉士として、スクールカウンセラーとして働く機会もある中で、教育現場での体罰は関心を持たずにはいられない話題である。
私は昭和時代に義務教育の大半を過ごしたが、その当時、体罰は日常的に行われていたように思う。忘れ物をしたら先生の持つ教科書で叩かれる、チャイム着席ができていなかったら箒でお尻を叩かれる、反抗的な態度をとると胸倉をつかまれる・・・。私はきちんと先生の言うことを聞く子であることが多かったので、体罰にあった記憶はないが、それでも全くないとは言えない。そして、自分がされた経験が少ないからといっても、クラスメイトが痛い目に合う姿を見ることは、子どもの心にも良い感情であるはずはない。
その後時がたち、私は、もし教師になっていたら、学年をまとめたり、生徒指導をまとめたりするような立場になり得る年齢になった。当時、教育の場で何の疑問もなく、暴力という手段が生徒の行動をコントロールするのに使われていた時代を経験している世代が、学校では上の方の立場に立っている。
虐待について考えるとき、それは連鎖する可能性があることは、今後の虐待の未然防止を考える点では重要なことだ。虐待によってコントロールされた経験は、暴力や恐怖に陥れることで、人をコントロールできることを経験的に知ることにつながる。
教育現場での体罰についてはどうだろうか。私は、同世代の学校関係者に問いたいと思う。私たちが生きてきた時代に行われていたことを、今の子供の権利条約が批准された社会の中で、どのように理解すべきか。どのように過去を受け入れ、そこで経験し学んでしまったことを、子どもの権利擁護のために昇華できるのか。
私の経験は私一人のものでしかないが、同世代が集まった時の学校の体罰に関する話題は似たような話が出る。それは、「常時竹刀を持った先生がいた」という漫画の世界のような、今となっては笑い話のようなネタもあるのだけれど、一方で、それが共通の話題として会話が成り立つという背景は、もしかすると体罰や児童虐待の土台になり得るのかもしれない。また、実際のところ、それが笑い話にならず、生涯にわたって何らかの人間不信や、恐怖心として残っている場合もあるだろう。同窓会の思い出話では笑っていても、人の心の中まではなかなかわからないものだ。
時代は変わり、価値観も変わってきている。一方で、日本は昔から子どもの存在を大切にしてきた価値観もある。三つ子の魂百までというように、子どものころに学んだことは、生涯にわたり影響する場合も多々ある。令和の時代になった今、子どもへの認識や教育、育児における子どもへの接し方を、改めて考えたいと思う。「その接し方はどういう影響を与えるのか?その接し方が良いと判断した根拠はなにか?」
子どもは、立派に権利を有する存在であるし、また一方、目覚ましく成長を遂げている真っただ中で、試行錯誤に自己と社会の関係性を探り存在を確立している存在でもある。その中で、「子ども自身が考え解決することを促し、子ども自身の人生に子ども自身が主体的に取り組めるような支援をしたい。」と、私は思う。
そのためには、痛みや恐怖で行動を縛るのではなく、頭をフル回転して考えるためには、むしろ恐怖を解き、いかなる自己も受け入れられるという安心や愛着の土台を固めることが大切で、それを支えることこそ、教育や児童・生徒への福祉が行うべきことではないかと思う。