かわらじ先生の国際講座~令和について思うこと

新しい元号が令和に決まりました。感想を聞かせてください。

出典が万葉集であるところがいかにも安倍首相好みだなというのが第一印象です。同じ国書でも日本書紀や古事記では政治色が強い。その点、歌集は文化・芸術の領域ですから政治批判を受けにくい。安倍首相も発表当日の談話のなかで「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております」と述べています。安倍氏は2006年、首相就任にあたって「美しい国」を目指すと表明しました(同年、著書『美しい国へ』文春新書も出版)。この「美しい国」と「令和」は同じライン上にあるようです。

美しいことの何が問題なのですか?

文学者や芸術家が「美」を口にするのならわかりますが、わたしは政治家が「美」を言い出したら警戒します。「美」という抽象的で情緒的なものを基準にすると、どんな横暴で無軌道な政治も許され、「美談」とされかねません。戦時中も散り際の美学が称揚されたものです。もう一つ安倍首相らしい点を指摘しますと、万葉集を出典に選んだ理由として「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収めれ」ていることを挙げています。安倍氏はこの「防人」という語をどうしても使いたかったのだろうと推測します。これは当時、唐からの攻撃を守るために配備された兵士です。現代の自衛官です。彼らを名実ともに兵士として位置付けたいとの思い、つまり改憲への意志も滲ませたのかもしれません。

それは考え過ぎでは?

少なくとも国防を重視する人は「防人」という言葉が出てきたことに共鳴したのではないでしょうか。安倍首相は新元号の条件として、中国の古典ではなく国書を出典とすることに固執したと新聞は伝えています(たとえば『京都新聞』4月4日付「検証 新元号『令和』③」)。このへんも安倍氏のナショナリストとしての面目が躍如としています。しかし新元号の本質的な問題はもっと別のところにあります。

それは何でしょう?

世界史との連動性を喪失したということです。近代以降に話を限りますと、明治は日本が開国し、欧米列強を範として富国強兵に邁進した時代です。大正は第一次世界大戦後の自由な息吹を受けた時代(大正デモクラシーなどという呼称も生まれました)。昭和は帝国主義と軍国主義に染め上げられた前半と、第二次世界大戦の終結と冷戦時代の後半に分けられます。そして平成の始まりは1989年ですが、この年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結しました。すなわち平成はポスト冷戦の時代なのです。しかし令和は世界史の流れとは無関係です。国内的にも安倍政権が続行中で、何らエポックメーキング的なことはありません。

でも、正月が二度来たような祝賀ムードが生まれつつあるようですが……。10連休も近いことですし。

そこが問題なのです。あたかも何かが一新されたような錯覚を与えるのです。安倍首相は先の談話のなかで「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、『令和』に決定いたしました」とも述べています。これでは平成が「厳しい寒さ」の時代だったと決めつけているようで、現天皇にはお気の毒なことです。とはいえ確かに厳しい課題を残した時代でした。福島第一原発事故の汚染除去の問題も、普天間飛行場の移設や辺野古沖埋め立て問題も、まったく片付いていません。それに森友問題や加計問題もうやむやなままです。北方領土問題も拉致問題も、悪化の一途をたどる日韓関係も、日米貿易摩擦も先が見えません。安倍政権にとっても厳しい時代は続いています。元号の変更をもって勝手に「春の訪れ」を宣言することは許されません。今朝の朝刊第一面には、紙幣も刷新する旨が報じられていますが、雰囲気だけの一新ムードに警戒したいと思います。このままでは令和がまことに空々しい時代になりかねません。

—————————————
河原地英武<京都産業大学外国語学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもあり、東海学園大学では俳句創作を担当。俳句誌「伊吹嶺」主宰。