「カナリア俳壇」11

今月もたくさんのご投句をありがとうございました。
2月25日~3月11日までの投稿分をアップいたします。

△顔寄せて確かむ小米桜の芽     える

【評】「小米桜(こごめざくら)」とは面白い季語を用いられました。雪柳の別名ですね。さて、俳句は日記帳に記すのでないかぎり、読者に何を伝えたいかを明確化させる必要があります。この句が伝えたいのは「小米桜の芽」でなく、それに顔を近寄せて、芽が出たかどうかを確かめている自分自身の姿ということになりそうです。「そんなふうに風流で心優しい自分を面白がってくれ」と言っている句なのです。
ちょっと意地の悪い言い方をしましたが、もちろん作者としては小米桜の芽の可憐さを伝えたかったのでしょう。とすれば、「顔寄せて確かむ」は不要です。そのような自分の行為を説明する必要はありません。顔を寄せて、確かめた結果、何が見えたのですか。その見えたものをもっと具体的に写生して初めて俳句となります。
山口誓子に「驟雨来ぬ蝉は両眼濡らし啼く」という句がありますが、これを「顔寄せて確かむ蝉の眼の雨滴」と作ったら台無しですね。

△椿落つ逝きし縁の人の数     える

【評】椿の花はぽとりと落ちるので人の死を連想させます。ですから、この季語は中七・下五の内容と連想が近すぎます。もっと言うと、作為が見えてしまいます。作為や理屈が見えない季語で再挑戦してください。

△伊勢参浪の穂白き伊良湖岬     羽後子

【評】中七・下五はゆったりとしたよい調べです。季語次第では秀句になりそうです。しかし「伊勢参」はどうでしょうか。一句のなかに「伊勢」と「伊良湖岬」と二つの地名があるのはどう考えても効果的ではありません。もちろん句意を好意的に解釈することはできますが、俳句は初読の3秒足らずの印象で決着がつきます。一読したとき、伊勢がぱっと思い浮かんだのに、すぐさま伊良湖へと情景を切り替えなくてはならず、とてもわずらわしく感じました。

△~〇書の師より講義受くるや朧月     羽後子

【評】なんとなく情緒は伝わるのですが、いまひとつ情景がわかりづらい句です。上五・中七を素直に読めば、いま現に、書道教室で講義を受けている最中なのだろうと思われます。すなわち室内で一生懸命に師の講義を聞いているのに、なぜ戸外の景である「朧月」が出てくるのでしょう。講義を受けに行く道すがら、あるいは講義を聞き終えた後の帰路に詠んだ景だとすれば、もっと別の仕立て方があるような気がしました。

△~〇油菓子齧る媼の桃節句     マユミ

【評】作者によれば、「油菓子」は東三河(特に蒲郡)独特の雛菓子の由です。「媼の」の「の」が気になりました。「桃の節句は女の子だけのものではない。媼にも媼の桃節句はあるのです」という作者の主張が、この「の」から聞こえてきてしまうのです。そこにやや押しつけがましさが出てしまうのです。とりあえず、「媼や」と切れを入れましょう。

△~〇月朧聞き逃したる子の話     マユミ

【評】下五に「子の話」を置くと、どうしても「話」に一句の重みがかかってきます。そして、それがどんな話だったのか読者にもわからないので、なんだか読後の気分が落ち着きません。しかし、本当は話の内容が問題ではないのですね。作者は子供の話を上の空で聞いていた、その自分のうかつさに焦点を当てたかったのでしょう。ですから、「子の話聞き逃したり月朧」と仕立てたほうが、より句意が鮮明になると思います。ただ、この季語ですと、自分の頭もぼんやり朧状態でした、と言っているようで、なにか理に落ちた感がなきにしもあらずです。つまり季語に作為が見えてしまうのが惜しいと思います。

〇~◎黒板に文字の残影雨水かな            永河

【評】「残影」が絶妙です。それは黒板の文字でありながら、「雨水」と相まって、雨に消されかけた何かともオーバーラップします。むろん雨水は時候の季語ですが、いやおうなく雨をイメージさせますので。この句は教室の風景をはみ出し、作者の心象風景をも浮かび上がらせる不思議な味わいを醸しています。

〇子等の書く句は三行や山笑ふ         永河

【評】本来は一行で書くべき俳句を三行に分かち書きしている子供たちに対し、いちいち直させるのでなく、それを興がり、おおらかな眼差しを向けているのですね。のびやかな気分が伝わってきました。ちなみに色紙に書くときは我々も三行にしますが、それはそれで味わいがありますよね。

〇~◎宮島へ渡船待つ間や春の虹     音羽

【評】宮島の厳島神社に行こうとしているのですね。作者の高揚感が季語に託され、しっかりと伝わってきます。句の形もきまっていますね。吟行句のお手本のような作品です。

◎引き潮の光を踏んで孕み鹿     音羽

【評】この句も宮島での吟でしょうか。「光を踏んで」という表現が詩的です。新たな生命の誕生を予祝するような、幸福感につつまれた佳句です。

△山笑う(ふ)藪を抜け来し狐川     水車

【評】「狐川」という固有名詞を出した場合、読者も作者と同じイメージを共有していなくてはなりませんが、あいにく私にはこの川に対する何の知識もないため、十分な鑑賞ができません。藪を抜けてくるだけなら、わたしが暮らす滋賀県草津市の草津川も同じですが、狐川でなくてはならない必然性があるのかどうか……。固有名詞抜きで、川の流れ方そのものをもっと写生することを勧めたいと思います。また、「山」「藪」「川」と場所的な語を3つも重ねると余韻がなくなり、ややうるさい句になりがちです。

〇うららけし似顔絵描きのベレー帽     水車

【評】とりあえずきちんとできた写生句です。合格点をつけられます。ただ、画家とベレー帽の取り合わせはよくありますので、どこか予定調和的で、いまひとつ意外性のような驚きがない分だけ、感動は淡くなりますね。

〇首里城の紅き庇に燕来る     万亀子

【評】この句は首里城という固有名詞が効果的ですね。きっと沖縄には本州よりもだいぶ早く燕が飛来するのでしょうね。きちんとできた写生句ですが、「紅き庇」以外にも、首里城の特徴を捉えた語があるかもしれません。いろいろ言葉探しをしてみると、さらに深い写生句になる気もします。

△ほの暗き山道照らす落椿     万亀子

【評】やや観念的な句だと思いました。落椿が明るい色だったことは納得しますが、ほんとうに照らすほど輝いていたのでしょうか。どこか言葉だけで処理した句だとの印象をぬぐえませんでした。

△~〇広縁の端の潜りや椿東風     徒歩

【評】この「潜り」は建築用語でしょうか。広縁の端の下あたりを潜りというのでしょうか。そのへんがうといため、うまく解釈できませんでした。また、東風自体は東方から吹いてくる風で、スケールの大きなイメージがあります。「広縁の端の潜り」に焦点を当てた場合、この季語が十分生きるかどうか……たしかに広縁の端に椿が咲いていたにせよ。

△~〇たばしれる小溝も疏水花あしび     徒歩

【評】疎水とは水を引くために人工的に造られた水路。運河もその一つですが、割と規模の大きいものです。しかし作者の見た「小溝」もまた、狭小ながら、疎水であったとの発見がこの句の感動のポイントなのでしょう。たしかに発見は詩の源ですが、そこにもう一つ美感を誘う要素がないと高揚が生まれません。詩情よりも知がまさった句との印象を受けました。したがって「花あしび」も十分な効果を上げていないように思われます。

△~〇春驟雨止みて檜皮に湯気の立つ     妙好

【評】うるさいことを言いますと、「何がどうしてこうなった」みたいな説明調で、今一つインパクトに欠けますが、湯気が立っているところをきちんと見届けた点は確かに俳人の眼力です。「春雨や檜皮葺より湯気の立ち」といった仕立て方をすれば、少なくとも句の形はずっとよくなりますが、やはり雨が止まないと湯気は立たないのでしょうか……。

〇桃の花息はづませてケンケンパ     妙好

【評】外来語でないかぎり、できるだけ平仮名で表記しましょう。「桃の花息はづませてけんけんぱ」のほうが品格が上がります。愛らしい子供の姿が見えてきました。季語も明るさがあってよい感じです。

〇春一夜鈴振り鳴らす花神楽     さくら子

【評】不思議な情感をたたえた作品です。どこかの伝統行事を見に行かれたのですね。作品自体はきちんとできていて結構です。ただ、季語のことが気になりました。「神楽」は冬の季語です(歳時記に載っています)。これに「花」が付いていますので、春の行事だろうと推測されます。「花神楽」が日時のきまった有名な行事なら、季語として自立できるかもしれません。とすれば、「春一夜」が重複しますね。この句、季重なりとならないかどうか、もう一度吟味してみてください。

〇山国の闇深々と榾を焚く     さくら子

【評】これも夜神楽の一場面でしょうか。この句の作り方からすると、戸外で火を焚いているのですね。榾というと、ふつうは囲炉裏で使われますので室内のイメージがあります。そこでちょっと状況がつかみにくくなりますので、なにか前書きがほしいところですね。

次回は4月2日に掲載予定です。それまでにご投句いただけますと幸いです。河原地英武

「カナリア俳壇」への投句をお待ちしています。
アドレスはefude1005@yahoo.co.jp 投句の仕方についてはこちらをご参照ください。