ニューフェイスです。よろしくお願いします。
カナリアコラムの早川一光先生と渡辺輝人弁護士の対談で、早川先生が戦前の教育について語っています。人間を鬼に変えてしまうような、自分の命も他人の命も破壊することをよしとするような、そんな戦前の教育が、どのような制度のもとで行われていたのか、憲法との関係で説明させてください。
現在の日本国憲法は、すべての国民が教育を受ける権利を持っていることを明記しています。また、教育は個々人の幸福追求権を保障するためにあるということも、日本国憲法が示す大事な点です。戦前の大日本帝国憲法には、実は教育という言葉が出てきません。日本国憲法ができるまで、教育は憲法や国会が定める法律に規定されるのではなく、天皇の命令(勅語や勅令・勅諭)という形をとって行われました。最も有名なものは教育勅語です。天皇の命令に従って教育が行われるのですから、それが子どもたちの人生を豊かにするためではなく、国に人生を捧げ、勇んで戦争に行き、自分の命も他人の命も破壊することを厭わない「臣民」を作るためのものになってしまったのは、必然だったといえるでしょう。
日本国憲法ができて、国民1人1人が自らの幸福を追求するために、教育を受ける権利が保障されるようになりました。周りの人々が不幸なのに自分1人だけが幸福であるということはできないのが人間です。個々人が幸福を追求するということは、みんなの幸福を同時に追求していくことでもあります。
今、自由民主党が改憲案を作成しています。2018年3月時点での報道によれば、教育に関する条文である26条の変更も議論されていて、そこでは「教育は国の未来を拓くもの」という言葉が入るそうです。そもそもこの言葉は2012年に作られた「自民党改憲草案」でも使われています。もしこの文言が憲法に入れば、教育は根本的に今とは異なるものになってしまいます。1人1人の人生を豊かなものにするために教育があるのではなく、国のために教育があることになるわけです。国の都合に合わせた国にとって都合の良い教育(その最たるものが、早川先生が回想している戦前の教育です)が行われることを、国民は止めることができなくなります。
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西垣順子<大阪市立大学 大学教育研究センター>
滋賀県蒲生郡日野町生まれ、京都で学生時代を過ごす。今は大阪で暮らしているが自宅は日野にある。いずれはそこで「(寺じゃないけど)てらこや」をやろうと模索中。老若男女、多様な背景をもつ人たちが、互いに互いのことを知っていきながら笑ったり泣いたり、時には怒ったりして、いろんなことを一緒に学びたいと思っている。著書に「本当は怖い自民党改憲草案(法律文化社)」「大学評価と青年の発達保障(晃洋書房)」(いずれも共著)など。