夏らしい季語の句がそろいました。早速ご投句順にみてゆきたいと思います。
〇遠き日の初恋の味ソーダ水 蓉
【評】ロマンチックな作品です。だれしも似た思い出がありそうですね。やや月並調で、類句はけっこうあるかもしれません。
△端切れ縫ひ朝顔作り涼を呼ぶ 蓉
【評】朝顔をかたどった端切れを子供の手提げ袋か何かに縫い付けているのでしょうか。「朝顔作り」だけで十分涼し気な様子は感じられますので「涼を呼ぶ」は蛇足になりそうです。下五でどういう状況かもう少し説明できるといいですね。あるいは、朝顔を季語としてしまい、「端切れ縫ひ朝顔柄の鍋敷きに」など、具体的に詠むのも手でしょう。絵画や図案は季語にならないとの意見もありますが、わたしは許容派です。
△「人道の道」に銘板青葉風 マスオ
【評】原句には「杉原千畝」の前書があります。京都に哲学の道があるように、名古屋には人道の道があるのですね。括弧(「」)は不要でしょう。ネットで検索すると、千畝の母校である瑞陵高校の正門前に銘板が設置されている旨記されていました。ちなみに千畝の住居地あたりからこの高校までの約4.5㎞を人道の道と呼ぶのですね。わたしのように初めて知ったものには銘板があるという情報は有意義ですが、人道の道をすでに知っている人たちにとっては銘板があることに驚きはありません。そして俳句は、人道の道をすでに知っている人を前提に作った方がよいのです(でないと、ただの観光ガイド俳句になってしまいます)。ですから、「銘板」以外に、もっと驚きのある語がほしいところです。
△~〇行きずりの力士ゆかたの清しかり マスオ
【評】原句には「名古屋場所」の前書があります。「行きずり」という語には、たとえば「旅の途中にたまたま出会い、もうそれきりだけの縁である」といった、独特の意味合いがあります。つまり、やや語感が重いのです。「すれちがふ」くらいでいかがでしょう。「力士」と「ゆかた」の間にある小さな切れも気になります。もう少し素直に「すれちがふ力士の浴衣清しかり」でいかがでしょう。ただ、浴衣とは本来、清々しいものですから、「清しかり」は言わずもがなの感があります。「すれ違ふ力士の浴衣ひるがへる」など、さらに工夫できそうですね。
△~〇今もなほ蚊帳吊草を裂き合へり 妙好
【評】「今もなほ」には「子供の頃にもよくそうしたように」という念押しの気持ちが込められているように思われますが、それは省略しましょう。わざわざ断らなくてもわかるからです。その分、上五ではだれと「裂き合」っているのか明示したほうが読み手は情景を思い浮かべやすくなります。ご自分の幼馴染とでしょうか、それとも吟行の仲間たちとでしょうか。もしかすると小さい子供に裂き方を教えているのかもしれませんね。「幼子と蚊帳吊草を裂き合へり」など、もう一工夫を。
〇黒南風や鴉居座り禁止札 妙好
【評】面白い句です。わたしもどこぞでカラスに対し「立ち入り禁止」の札を立てている話を聞いたことがあります。文字を読めないカラスが本当に来なくなったとか。不思議です。「黒南風」という季語もよくマッチしていると思いました。
〇不死男忌やスマホに皮脂の指の跡 音羽
【評】「皮脂の指の跡」より「指の皮脂のあと」または「指の脂じみ」のほうが表現が素直だと思います。とてもユニークな作品で、なにかやるせないような気分も伝わってきます。ただ、わたしは秋元不死男のことにうといため、果してこの季語でよいのかどうかわかりません。そのへんは不死男のことに詳しい人の判断に委ねたいと思います。とはいえ類句がない点で そして一種独特な詩情を感じますので、もし句会にこの句が出されたら、取るだろうと思います。
△~〇ペディキュアの遠くにかすみ昼寝覚 音羽
【評】ペディキュアと昼寝覚めの取り合わせが斬新です。惜しむらくは、このペディキュアと昼寝覚の関係が今一つ判然としません。「遠くにかすみ」とは、ご自身の足の先が、目覚めたばかりで横になっている状態で眺めて遠くに見えた、ということではなさそうです。それですと「かすみ」が大袈裟ですから。たぶん、ペディキュアをつけていた(若い)頃ははるか昔のことになってしまったという感慨なのでしょうね。
〇~◎八雲立つ大社の千木や夏燕 万亀子
【評】「八雲立つ」とは雲が盛んに湧き立つという意味で、出雲にかかる枕詞。ですからこの大社は出雲大社のことですね。大らかな詠みぶりでスケール感もあり、躍動的な季語もよくマッチした佳句だと思います。いわゆる土地誉め、すなわち訪ねた場所への挨拶句でもありますね。
△諸肌のタトゥー露に汗の粒 万亀子
【評】タトゥーというと入れ墨とは違って、若い人たち、ことに欧米系外国人のファッションを連想させます。ところで、「諸肌脱(もろはだぬぎ)」は「肌脱」の傍題で、夏の季語になっています。「諸肌」だけでも、とうぜん脱いだ状態ですから、夏の季語になりそうです。とすると「汗」と季重なり。また、「露(あらわ)」も裸身を連想させますので、諸肌との重複感が気になるところです。たとえば「両腕の青きタトゥーに汗光る」など、ご再考ください。
〇神の田に泥飛沫あげ裸衆 桃子
【評】「神の田」ですから、これは御田植祭の情景でしょうね。「泥飛沫(どろしぶき)」が臨場感たっぷりですね。「神の田」や「泥飛沫」自体は季語ではありませんが、「裸衆」の「裸」が夏の季語ですので、この形でけっこうと思います。
〇虫の子が胡瓜の棘の迷路逃ぐ 桃子
【評】童心でとらえた面白い句です。虫の子がやや曖昧ですので、具体的な昆虫名が入るとさらに情景が鮮明になりそうです。それから上五「虫の子」が主語、下五「迷路逃ぐ」が述語となっていて、途中に切れがなく、やや散文的な印象を受けます。「蟻惑ふ胡瓜の棘の迷路かな」など、一つ切れ(この場合は「かな」)を入れたいところです。
△母の屋の狭き物干し灸花 徒歩
【評】「母の屋」は「ははのや」と読むのでしょうか。字面をみれば「母の家」のことだとわかりますが、耳で「ははのやの」と聞いただけでは、即座に意味がとれません。それから、「狭き物干し(場)」と聞くと、ベランダや屋根の上に設けた物干し場を連想しがちです。この句もそのつもりで読むと、最後に「灸花」とあるので、そこで初めて地上の庭のことかと合点します。読み手にこのようなイメージ修正をさせないためには、灸花を先に出してしまった方がいいでしょう。「灸花母のちひさな物干し場」など、もうすこしわかりやすく作ってみてください。
〇雲海へ消えゆく槍の縦走路 徒歩
【評】「槍」はもちろん槍ヶ岳。縦走路を行く人々が蟻の列のように見えてくる巨視的な作りの句ですね。「雲海へ消えゆく」もリアルな描写です。作者はその縦走路をゆく人々のなかの一人だったのでしょうが、句自体はその自分を離れ、鳥の視点で見ているようで、迫力のある作品となっています。
△七夕の願ひの熱き白寿かな マユミ
【評】句意はしっかりとわかります。「白寿のご高齢にして、まだこれほどの夢を抱けるのか」という作者の感嘆も伝わってきます。問題は「熱き」という措辞です。これがこの句を陳腐化させてしまっています。このような俗な形容詞は用いず、その願いの中身なり、願いを書いた筆跡なりを、もっと客観的に描写することが肝心です。
?切り火受く朝顔飾り胸元に マユミ
【評】朝、職人さんが女将さんから「いってらっしゃい」と火打石による切火で送り出される場面を時代劇でみた記憶があります。いまでも伝統を重んじる職業の人たちの間では行われているとか。この句の場合は、作者が切り火を受けているのでしょうね。朝顔飾りを胸元につけていることには、きっと何か意味があるのでしょう。ある種の役目を引き受けたのでしょうか。そのへんの事情にうとくて、よく解釈できませんでした。
△~〇大樹寺の昼なほ暗し夏初め 豊喜
【評】句のかたちもよく、「昼なほ暗し」も俳句ならではの表現で、初心者の作としてなら「よく勉強していますね」とほめてよい句です。しかし、豊喜さんには是非この先へ進んでいただきたいと思います。「大樹寺」の「大樹」から「昼なほ暗し」は連想されて意外性がありませんし、そもそもこれは月並表現です。「夏初め」もやや安易な付け方で、この句にとって唯一無二の季語という感じがしません。ベテランの方々にもこの作風で満足している人が少なくありませんが、この殻を破るところから真の俳句が始めるような気がします。
〇友がらと步く三河路夏は来ぬ 豊喜
【評】のびやかな句で、気持ちよさが伝わってきます。季語もよく効いています。ただし、「友がら」などという古臭い言葉を使う必要があるかどうか。こういうところに気どりが顔を出しています。もっと現代人として身の丈にあった言葉を選びたいところです。
◎亀洗ふ少女に初夏の匂ひかな 永河
【評】今回の全投句作のなかの特選句でしょう。第一に詩情豊かですし、第二に類句はまずありません。そしてほのかなユーモアも感じられます。「初夏の匂ひかな」とはなかなか言えない表現ですね。
△~〇首鳴りてふつと見つけし釣鐘草 永河
【評】なにかの拍子に作者の首の関節がぽきっと鳴ったのでしょう。そのとき視界のなかに釣鐘草が際立って見えた、ということを気取らず、実際のままに詠んだ句だと解しました。このような偶然の出来事を五七五に圧縮すると、意外に面白い句が生まれるのはたしかですが、この句の場合は「首鳴りて」に作者の自意識が強く出過ぎていて、自然な味わいを阻害しているように感じましたが、いかがでしょう。「ふつと」も冗長ですので消したいところです。
次回は8月6日にアップの予定です。晩夏、あるいは初秋の季語も使えそうですね。みなさんのご投句をお待ちしています。河原地英武