
上演しない文字はやせる。これが私の長年かけて醸成してきた結論だ。
脚本のことだ。もうここ20年くらい、劇団を持たないのに脚本を書く人、という類型の人が増えた。戯曲賞の影響だ。戯曲は、上演しないものも含めて戯曲だ。そういうのも仕方なく戯曲だ、と私は言いたい気分だが、各地にいくつもある戯曲賞を、そういう人が受賞することがちらほらある。退職後のサラリーマン。現役の本職はサラリーマン。子育ての終わった主婦の趣味。劇団、という人の群れは彼、彼女の生活圏にはなくて、演劇を見に行くことはあるから、その形は真似て書くことになる。
だけど出来上がった受賞作やら、受賞未満の作品を審査員の立場などで読むと、やせている、と感じるのだ。そもそも、上演する舞台上の都合が無視されている脈絡が多い。舞台美術は一瞬にして木が枯れてなくなっていたり、木の葉の色がすべて紅葉になったりできない。テレビや動画の編集では可能な一瞬での場面転換ができない。照明や舞台美術の効果を考えたらいい、と素人は考えるかもしれないが、上演の都合、というのは予算の都合、と同義だ。水が膝の高さまでたまっている空間の中で展開していく人間模様、そんな舞台設定、という作品があった。水?舞台に?あの地下やら壁に電気のコードが大量に渦巻いている劇場に水?感電、漏電必至だ。一般の民家だって水が流れていいのは防水加工されている浴槽、お風呂場、洗濯機おきばくらいのものなのに、そんな脚本を書くのは演劇関係者にはいない。
不可能か?いや不可能ではない。防水加工をすればいい。大量のぶあついゴムシートを敷き詰めるか、強いプラスチックでプールを作ってしまって、そこの中で上演すればいい。しかし、たとえば横15メートル縦5メートルという特注のそんなもの、なん千万円かかるのだろう。そんなことを要求するのは現実的な台本だろうか。
だけどそんなものを脚本家が集まった審査会が受賞作に選ぶことがある。私はもちろん反対票を入れる。無責任極まりない選考だ。こんなものを認めていい、と後進たちに影響を与えるではないか。その場にいる劇作家の誰もが、この作品を上演に持って行く企画の責任者に立候補などできるわけがないのに、実現不可能な文字の連なりをほめるのか?……戯曲賞は、20年くらい前からずいぶん変質している。
もしかしたら、いや濃厚にポストモダンの思想の流行というのが基底にあると私は考えている。脱構築だ。きちんとなにかを構成し、積み上げ、成り立たせること自体を、その志向性を疑い、むしろ脱却せよ、とする思考。上演不可能な戯曲をこそ称揚していいのではないかと考えるのはその流れだ。そんなのただの無軌道だと私は考える。意味を伝達しあえない言語を創作することに意味などないのと同じで、上演は、客と作り手の間の交流の行為なのだ。交流の断絶こそ交流の一種だ、と強弁するのだろう、その思想の人たちは。私は限度がある、そこにそうあるとせめて見えるものをそうあるのだと認めるところから始めようではないか。現象学の立場か要するにおまえは、と言われそうだが、そうなのかもしれないしそうでもないのかもしれないけれど、私は「意味があるのかないのか」とか「成立するのかどうか」とか考えることに実はたいした興味などない。「感動したい」これだけなのだ。実際、その芝居を実行して感動したい。だから、書く。だから、感動できる元の本になってる台本だったら賞をあげたい。演劇人ってそもそもそういう情ばっかり先走る人種じゃなかったっけ?
成り立つか成り立たないか微妙な作品?作品以前の作品?ただの文字たち?そういう実験途上のなにか?になぜ賞をださないといけないのか。それは研究機関の論考でやってほしい。賞、とはほめるものだ。数々の演劇的実験は、賞など得ていない。演劇的実験でその後の演劇を変革した基軸となった作品は、確かに過去、ある。けれどその同時代には落選していたものだ。世間の評価は受けられないで無視、黙殺、否定されていてこそ実験作ではないのか。そのことの方に価値があると思わないのか?ほめないことにこそ意味があり、ほめられない世間の受け取り方を逆転するストーリーにこそ革命家、実験家の「伝説」は成り立つ。なのになにをぬるくほめてしまうのか。しかも、今よく見られるそんな実験作はたいてい成り立たない。実験に向かうやむにやまれぬ強い動機、強い危機感、肝をちぎられるようなくやしく恨む気持ち、などがその作品には見られないからだ。
どちらか言うとすでにこの世の権威ある知識人たちには認知されている様子のポストモダン「的な」作品の好みに迎合して、演劇の「枠」を「越境する」作風は受賞には近いぞ、という現世利益を求める薄汚い欲求がみえかくれする創作の腐臭がぷんぷん匂ってくるではないか。世界を革新したい強い憤り、身を捨てても世を憂う志士の感覚、そんなものかけらもない「なんとなく実験風味」の作品と、不条理演劇を始めたベケットやイヨネスコとをいっしょにしてはいけないのだ。
そもそも、実はベケットやイヨネスコの作品は上演したら意味不明だけどなんだか愉快なものになるようにしつらえられている。慎重に「こんなのも面白くできるじゃないのか」という模索が行われていたのだ。
こんな「不条理風の」作品は、たとえば草野球で「ルールを越境しよう」と提案してくるチームみたいなものだ。あの線のこっちはファール、って決めてることを疑って無化しよう。フェアだと言いたい奴がそう言ったらフェアでいいじゃないの……そんな作品だ。そんな「思想」が跋扈するグランドは野球がおもしろいか?わざわざ人間はルールを限定し、その不自由の範囲で競い、闘い、それを楽しみ、悲しみ、泣く、ということをしてきたのではないか。それ自体は生産性?などたちいれない、「興奮するから興奮する」以上の理由などないものではないか。そしてそれ自体に、人間存在の貴さとか切なさとかがあるのではないか。鳥があんな鳴き方をすることを疑ったり越境したりしてもしょうがない。鳴くあの声をただ、味わおうではないか。泣くようにも聞こえるし、恋うようにも聞こえる。喜ぶようにも聞こえる。彼らがほんとはなにをしているのかわからないが、こちらの勝手な気分でそう聞こえて、それがほんとにそういうふうに聞こえて仕方なくて、こちらが勝手に泣けてくる……そんなこと自体が、おもしろいじゃないか。演劇も、人の世の営みも、結局はそういうことじゃないか。
人間はいつか死ぬ。人の世はいつか滅ぶ。だったら一切の衆生のいとなみは無意味か?そうだと言えばそうだし、そうではないといえばそうではない。だけどどっちを選ぶのか勝手に選べばいいのなら、私たちはこの有限なる命と世界のありさまを楽しむ方を選ぼうじゃないか。
とはいえ。しかし。私自身が、そういう「上演できない脚本」を書いてきたじゃないの?誰かに言われそうだ。そう。イエス。私の6本目の作品は「区切られた四角い直球」。私自身は上演できないものだと思いながら書いた。少年が小さな紙をセロテープで張り合わせる。長い連なりを作ってそれを扇風機の風にのせて飛ばしてみたらこんなことになった……みたいなト書きがある。女子高生がビルの屋上から靴を投げた。雲の晴れ間を背景にしてきれいな放物線を描いて落ちてった……みたいなト書きもある。
あれは、もう違う。私が示したのは、現実に行われているつまらない劇に対するなんというか、いらだちだ。なにか別の、そういうものを超越する強い力への願望だ。だいたい私がそれを書いていた当時、「実験劇風」のものなんか流行してなかった。唐十郎はじめアングラ小劇場のエピゴーネンたちの書きっぷりとか、そんなのが多くて、劇は劇やる人たちの間でしか通用しない趣味的な書き方を楽しむ小さな沼みたいなものであったし、…あれ。
そんなふうに自己弁護できるのなら、ありとあらゆるいまどきの「実験風」の書き手たちを否定なんてできなくなるじゃないか。今どきの書き手たちだってなにかにいらだっているのだ。あれ。あれ。
……だからつまり、残念だけど私は実験ふうのものを書く人たちの気持ちはわかるのだ。そう。だけどそう。私はだれにも似たくなかった。誰かのに似てる、って言われたくなかった。師匠も先輩もいらない、って意地になってた。そうしてたら、ああなったのだ。意地になったあげくにたどり着いたのがあの不可能なト書きだったのだ。ああだからと言って肯定できるのだろうか、私は、私を。
けれど苦しい自己嫌悪の息の下から、私は言いたい。若者よ。安易に、流行に乗るな。誰にも似るな。似ようとするな。しんじつ、新しくあれ。
ではしかし、私はどうしたらいいのか。世界の革新を求める私はどう創作していけばいいのか。新しさは、どういう点に求めていくのか。…かっこよく言えば、人に、人そのものに、革新の芽は宿っている、と思おう。人を観察すること、人の生きる様子をつぶさに見つめること、そこから世界の次のありさまはうかびあがる。それを人が演じること、人としてどうその革新を背負うか怯えること。その怯えやら震え自体が、新しさの現出だと言える。常に言えるのだ。
おもしろくありたい。だっけど革新などしなくていい、というのではない。もちろん、革新はするのだ。ローリングストーンズギャザーズのーモス。澱む水は腐る。希望のために、またこの3月、上演する。見に来てほしい。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)
…………………………………………………
上品芸術演劇団 3月上演の公演予定。
タイトル未定
2026年3月21日(土)愛媛県今治市の波方公民館 11時15時 2ステージ上演
3月23日(月)19時半、24日(火) 19時半 大阪のウイングフィールドにて 2ステージ上演
鈴江俊郎作・演出・出演の新作、二人芝居です。共演者は沖縄から城間里沙子。