ビートルズ~ハロー・グッドバイ

寂しそうな景色でも田舎の良さがある (撮影:塔嶌麦子)

「悲しき天使」(68年)。メリー・ホプキンのデビュー曲だ。「あの頃は良かった。楽しかった」と歌っている。ビートルズのポールがプロデュースして世界的に大ヒットした。
あの頃が懐かしい。本当に懐かしいったらない。おれはまだ中学生だった。のんびりのほほんとした穏やかな日常だった。そりゃ親は大変だっただろうが、おれは何の不満もなかったように思う。
トランジスタラジオを買ってもらい、ヒットパレードや深夜放送を食い入るように聞いていた。勉強などそっちのけだった。
あの頃、すなわち60年代はロックの黄金時代だった。ビートルズは勿論、ローリング・ストーンズ、S&G、ビージーズなどなど、どれもかっこよくて、何よりも夢中になって聞いていた。
今でも心に焼き付いていていつも聞いてしまうのは、アニマルズの「朝日の当たる家」。これはイントロのギターからたまらなくなる。S&Gの「サウンド・オブ・サイレンス」。映画「卒業」とセットで、静寂のロックだと思う。プロコル・ハルムの「青い影」。何とも幻想的で、ゾクゾクする。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」。切ない歌だが、皆で歌えるのがいい。何故かこの4曲が頭にこびりついている。特にお気に入りなのだ。
60年代初頭はギター1本で歌うのが主流だった。PPMやジョーン・バエズ、ボブ・ディランなど、日本ではこれらのアーティストの曲を我れも我れもとコピーするのに躍起だったと思う。おれは高価なギターなど買ってもらえるはずもなく、玩具のようなウクレレで「あ~あ、やんなっちゃった」と牧伸二の歌を真似たりしながらうっぷんを晴らしていた記憶がある。
また、それらの「花はどこへ行った」や「風に吹かれて」などの曲はプロテストソングと言われ、アメリカの公民権運動や人種差別といった政治的抗議の色合が強く、いわゆる反戦歌が多かったのだ。おれには遠い空の向こうの出来事だったが、日本では安保反対などの反政府、反米の機運が高まり、労働者や学生らによるデモなどが盛んにおこなわれていた。でも、それはニュースで知るだけで、日本の首都東京でのことだった。おれはそれらの歌や東京を思い浮かべはしたが、「この広い野原いっぱい」花などが咲き乱れている酒田のことで頭がいっぱいで、対岸の出来事なのだと、ただ傍観しているだけだった。それはおれだけではなく、周囲の同級生も皆そんなだったと思う。
新宿駅西口広場でのフォーク集会のニュースを見たのもその頃だった。「友よ、夜明けは近い」などの歌で盛り上がっていて、世の中は歌で変えることが出来るのだと、子ども心に本気で思ったりもしていた。
おれは音楽が好きだったが歌はからっきし下手。迷うことなく吹奏楽部に入った。与えられたのはクラリネットだった。暫くして、「おれがやりたいのはチンドン屋じゃない」と嫌になり辞めた。次に柔道部に入った。男は強くなければダメだと思ったのだ。首を絞める技があり、何度か気絶させられた。これでは必ず死ぬと思ってまた辞めた。このように、何をやっても長続きしない、根性なしだったのだ。
高校は進学校だったが、勉強しなかったので大学は受かるはずがなかった。浪人はしたが、諦めて国鉄に就職した。すぐに国労(国鉄労働組合)に加入した。周りが皆国労だったからだ。よくデモをした。日比谷野音での集会が終わると東京駅までのデモ行進という流れだった。銀座をシュプレヒコールで気勢を上げながら練り歩く。「国民の権利を守れ。斗うぞ、斗うぞ~」。銀座に遊びに来ているお前らブルジョアに、おれ達低賃金労働者のことなど分かるはずがない、と思いながらだ。
とにかく、また言うが、60年代の洋楽はロックの黄金時代だった。ビートルズの出現により、フォークのアコギがエレキのバンド形式のグループが増えた。ビートルズの影響を受けないミュージシャンはまずいないだろう。誰もがビートルズに憧れた。ビートルズはおれの宝物だ。
尚、この章のタイトルは「ハロー・グッドバイ」にした。この曲の歌詞は、ハローとグッバイ、イエスとノー、ゴーとストップ、ハイとロウ、ホワイとアイ、ドン・ノーしかない。これなら英語が分からないおれでもアイ・アンダスタンドだ。おれにピッタリの曲。このように、ビートルズはおれにまでやさしいのだった。
おれにはこうして心を埋めるものがいっぱいある。もう「悲しい」なんてことは言わない。なんだか段々と平気になってきた。この先もまだまだ長いはずだ。いくら腰が痛くても、足がつまずいても、目がかすんでも、人の名前が思い出せなくても、楽しく生きて行きたい。
君は「行くな」と言う。おれは「行く」と言う。その手を離すんじゃないぞ。おれはホントに行っちゃうからな。
ビートルズよ、ありがとう。さんきゅベリベリだぜ。
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斎藤典雄
山形県酒田市生まれ。高卒後、75年国鉄入社。新宿駅勤務。主に車掌として中央線を完全制覇。母親認知症患いJR退職。酒田へ戻り、漁師の手伝いをしながら現在に至る。著書に『車掌だけが知っているJRの秘密』(1999、アストラ)『車掌に裁かれるJR::事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』(2006、アストラ)など。


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