酒田を襲った7月末の記録的な大雨といったらなかった。
これまでに経験したことのない、恐ろしい程の降りだった。町は今でこそ何もなかったかのように見えるが、被害に遭った地域は未だに大変な思いをしているのだ。
最上川など複数の川が氾濫して、多くの家が浸水した。それは市街地よりも山沿いの在の方が顕著だった。
あっという間に水が押し寄せる。家具が浮く。泥だらけになる。家財道具は捨てるしかない。山沿いでは山が崩れる。木々がなぎ倒される。家は潰れる。道路は寸断、断水停電になる、などなど。
九死に一生を得るとはこのことだ。悲惨としか言いようがない。何も手につかない。茫然自失だ。途方に暮れるばかりで絶望しかない。
あらゆる所が土砂や流木に埋っていて、それは1メートル以上にもなっている。水がないから片付けは出来ない。泥は乾いて固くなる。人手がない。家にはもう住めない。これから先どう生きればいいのか。答えが出ない。
これ程の被害は一人では限界がある。というより無理だ。何も出来ない。気持ちの整理がつくはずがない。個人には何の責任もない。国や行政が早急に対応すべきだ。が、弱い所に手が届くのはいつも遅い。弱者の声を聞いているのか。「米だけあればいい。みそとしょうゆと水だけあれば、あとは何もいらない」。想像を絶する。
二週間程が過ぎて、ニュースを見た。どうしても揶揄したくなった。山形県知事が江戸まで参上した。状況説明のためだった。殿(岸田総理)は「激甚災害」に指定すると明言していた。何もかも遅すぎやしないか。江戸時代じゃあるまいし。
この時の大沢地区(酒田市八幡地域)は、重機が入いらず未だに手つかずだったのだ。耳を疑うばかりか、日本政府は国民の命、財産、暮らしを守るといつも言っている。この約束を果たしてほしい。国民は何も言わなくても政府を見ている。心の瞳の中で。いつだって見ているのだ。復旧なくして復興はあり得ない。
三週間経ったお盆の頃だった。漸く重機が入いり土砂などの撤去作業が始ったということだった。ばぁさんが言っていた。「いろんな人に助けてもらった。これでやっと前を向ける」と。人は挫けない。いつかは立ち直る。どんなに辛くても。悲しみを背負ってでも。
おれの家は高台だから被害は免れたが、ふるさとは激変した。心の拠り所だった田舎の風景は見るも無残に大きく姿を変えてしまった。いや、今はまだ感傷に浸っている場合ではないのかもしれない。しかし、この思いをいったいどこにぶつければいいのか。慰めの言葉もない。とにかく負けるな。頑張ってほしい。
それにしても、降れば豪雨で災害になる。晴れれば猛暑で命に関わる。すっかし二極化になってしまった。異常気象ではなく、これが正常、普通になってしまうのか。昔はこんなではなかった。日本には美しい四季があった。その四季が消えつつある。春と秋はなくなり、二季になろうとしている。「あぁ」、嘆いても何も始まらない。
酒田で大きな災害といったら、酒田大火をおいて他にない。76年10月(昭和51年)、戦後4番目の大火といわれ、町の中心部をそっくり焼失した。あれから早50年が経つ。
当時おれは国鉄新宿駅で夜勤中だった。翌朝列車に飛び乗り酒田へ向かった。幸い実家は無事だったが家の中は空っぽだった。母親が一人暮らしだったので親戚や知人が家財道具を全て運んでくれたということだった。
「風の棲む町」といわれている酒田だ。折りからの風は台風並みで風速25メートルを超えていたという。12時間も燃え続けたのはそのためで、消火活動が思うようにいかなかったのだ。火事の原因は映画館の漏電で、死者は一名、消防長の殉職だった。悪夢としか言いようがなかった。それでも復興を果たし、今の酒田がある。
今年元日の能登半島の大地震。時が経てば忘れられて行く。当事者以外は他人事となる。これは仕方ないことだと思う。こうした心理は人間の常なのだ。
いずれにしても、このような突発的な事が起きると一日が台無しになる。それが何日も続くとやっていられない。おれなんて何もしたくなくなる。何もしない。と言うと、「お前、不謹慎にも程がある」みたいなお叱りを受けるかもしれない。
ええぃ、うるせえんだよ。勝手に誤解しろ。何もしなくても、思いだけは人一倍寄せているんだ。それで悪いのか。お前には分からないんだ。
おれたちは、悲しいと言うことしか出来ない。それが悲しいんだよ。負ける訳にはいかない。
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斎藤典雄
山形県酒田市生まれ。高卒後、75年国鉄入社。新宿駅勤務。主に車掌として中央線を完全制覇。母親認知症患いJR退職。酒田へ戻り、漁師の手伝いをしながら現在に至る。著書に『車掌だけが知っているJRの秘密』(1999、アストラ)『車掌に裁かれるJR::事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』(2006、アストラ)など。