福祉という言葉の「福」も「祉」も、その漢字の意味は『しあわせ』らしい。社会福祉士として利用者さんの暮らしにかかわる以上、その人の社会の中で幸せだと感じることを増やすことにつながるようなことをしたいと思う。
しかし、現実は、なかなか難しいと感じることが多い。そういえば、福祉の仕事のドアを開けたとき、「利用者さんが笑顔になるような支援がしたいな、ずっと笑顔でいてもらえたらいいな」と思っていたっけ。いや、その思いは変わらないのだが、ずっと笑顔でいるというのは、実際は難しい。人間だから、機嫌が悪い時もあるし、体調がよくないこともあるし、心配なことがある日もある。それ以外にも、いろいろあるのだから。
ときどき、利用者さんの「自由にしたい!」という要望を聞く。障害があるということで、いろいろと心配されたり、支援されたり、制限があったり、道をつくってしまわれたり、箱を決めてしまわれたり、不満なことや窮屈なことが多かったんだろうな、と思うことがある。
「まぁでもね、みんな自由にしたいけど、やっぱり、そればっかりじゃないでしょうからねぇ」という、当たり障りのない受け答えをしながら、心の中で『自由にしたいかぁ。』と私は考えるし、『自由ってなんなんだろうなぁ』と思う。こどもから大人になるにつれ、経済的な自由や、怠惰な生活をする自由は増えるけれど、逆に、節約してやりくりをし、きちんと活動して収入を得たり健康を維持するということで、自由は無限にあるものではなく、結局は制限があることがわかる。
やりたいことや、生活の要望を聞いておきながら、自由にしたいといわれると、それが無限でないことを説明し、結局、その人が思うような自由にはできないんだ、という話をすることになる。自由にすることと、好き勝手にすることは、ちがうのですよ、などというよく耳にするようなことを言うことも多い。
でも、自由にしたいと思って、自由にしようとすることが、実はそこそこ我慢や努力や苦労や苦痛もともなったりすることを、経験して身をもって考える、という機会もなかったのかもなぁ・・・と思うと、「愚行権」という言葉もあるので、成年後見人という立場からは、致命的に行き詰らない限りは、(周りからは、それは無理だと思われるようなことでも)やりたいことにチャレンジしてみる!という場を増やしていくことも、大切な活動だろうと思う。
私は、ここのところ毎晩鍋料理を自作して食べているが、一人暮らしで自炊する利用者さんならいざしらず、施設やグループホームで出されるご飯を食べている人にとっては、毎晩鍋とか、晩御飯がポテトチップとか、朝ごはんがケーキとか、ないなぁ・・・。そういう、些細な「やりたいこと」もできにくい環境にいるんだなぁ・・・とおもうと、無限の自由の実現は難しくても、だれにも迷惑をかけない中での自由の確保は、大切だと思う。
あなたは、どんな「自由」を楽しめていて、どんな「自由」が欲しいですか?