年末から年始にかけてNHKで放送された「超進化論」と言う番組を興味深く見た。植物編、昆虫編、微生物編と3部構成で放送されたがそれぞれが独立して進化したのではなく共に深くかかわりながら進化してゆく過程は、まるで一つの大きな生き物としての進化のように思えた。以前「生命に部分はない」と言う本を読んだ。個々の生命の集まりである生物界にもまた「部分はない」のかもしれない。人間に都合の良い部分だけを切り出しそこだけの生産性を最大限に追求する事は、それ以外の所に大きな歪を生じさせる。その歪が、廻りまわって自分達を苦しめる事になる。神仏に先ず何を祈るのか。家内の安全や健康、商売繁盛様々な願いは有るが、自分だけの幸せはありえない。そこでこの世のあらゆるものの平穏無事を祈る事にしたが、他の命を戴いて生きて行く身としては、矛盾が生じる。この矛盾を解決するのに仏の知恵を授かりたい。無益な殺生を戒めるのは、単に生き物を殺すなという事ではなく飽食の時代の過度な肉食や美食への戒めのように思う。仏教哲学の基本は、中庸と慈愛ではないかと思っている。野菜作りに置いて「中庸と慈愛」をどの様に具現化させるのか。私も進化を続けたい。高桑信一著「山小屋の主人を訪ねて」の後書きにこんな一節がある。(山小屋)「その不自由な空間に多くを求めてはなるまい、どこかに節度と自制があっていい。」山小屋とは、登山者にとって休息の場であり、時には、命を守る避難所でもある。ラジオから流れてきたこの一節に(有機農業の畑)と置き換えてみたくなった。
京滋有機農業研究会 会長の田中真弥さんが無減農薬野菜などの宅配サービスの会員向けに連載しているコラム「こころ野便り」を当サイトにも掲載させて頂いています。前回はこちら。