米国のナンシー・ぺロシ下院議長が他の民主党所属議員5名を引き連れ、8月2日夜から3日にかけて台湾を訪問しました。ペロシ氏は中国共産党政権に対する強硬な批判者として知られていますが、今回の訪問時、台湾の蔡英文総統にも「米国は台湾を見捨てない」との強いメッセージを伝えました。
予想されたとおり中国は激しく非難し、8月4日から10日まで台湾をめぐる海域と空域で軍事演習を行い、そのミサイルの一部は日本の排他的経済水域(EEZ)に落下しました。台湾有事になれば日本も巻き込まれることを改めて印象付けたと言えます。他方、米軍も周辺海域に空母打撃群を派遣し、米国から沖縄に軍用機を飛来させるなど、警戒を強めました。
一時は米中両軍の衝突すら懸念されるほど緊張が高まりましたが、現在はとりあえず沈静化した模様です。なぜこの時期に、ペロシ氏は台湾を訪問したのでしょう?そしてなぜこれほど米中関係は緊迫することになったのでしょうか?
実はペロシ下院議長の訪台は、4月に予定されていました。ロシア軍のウクライナ侵攻が世界に衝撃を与えていた時期で、中国が台湾に対し同様の行動をとらぬよう牽制する意味合いもあったのでしょう。ところがペロシ氏が新型コロナウイルスに感染してしまい延期されたのです。ですからそれが夏に持ち越されたのは半ば偶然とも言えます。しかし今年の8月は、米中ともに対外的に強い姿勢をとらざるを得ないタイミングとなってしまったために、軍事的緊張の高まりは不可避でした。
その「タイミング」とはどういうことですか?
まず中国側の事情を述べますと、今秋(10月か11月)に、5年に1度の中国共産党大会が開催されることになっており、その準備に向け、水面下で政局が動き始めているのです。習近平総書記は、異例となる3期連続の在任を目指していますが、党内にはそれを阻止したい勢力もいます。習氏の弱腰な対外姿勢は、政敵に批判の口実を与えることになりかねません。中国が「核心的利益」と主張する台湾については断固たる態度を示すことが必須なのです。中国は8月10日、22年ぶりに台湾に関する白書(「新時代における台湾問題と中国統一」)を発表しましたが、台湾統一後には「一国二制度」を適用するという従来の方針も撤回され、かなり硬化した内容になっています。
米国側の事情は何ですか?
米国では11月に大統領の中間選挙が行われます。議会選挙のことです。バイデン大統領も民主党も支持率が低迷していますが、ここで民主党が勝たないと、バイデン政権の2期目に黄色信号が点ります。大統領としても国民に支持されるため、強いリーダーシップを示す必要があります。ペロシ氏も下院議員の一人ですから選挙戦で勝たねばなりません。下院議長は大統領、副大統領に次ぐナンバースリーの地位ですが、82歳というご高齢ですし、厳しい選挙になることが予想されます。彼女の選挙区にはサンフランシスコのチャイナタウンが含まれます。ここには反共・台湾派の人々が多数暮らしていますから、その票を集めるためにも、共産中国への断固たる姿勢を見せることが重要なのでしょう。当初バイデン大統領は、中国を刺激することになるペロシ氏の訪台に消極的だったと言われますが、こうした内政事情に鑑みて同意したものと思われます。
米国も中国も、国内事情のために軍事的緊張を高めたということですか?下手をすれば戦争になりかねないのに、米中の為政者はあまりに無謀ではありませんか?
両者とも非常に危険な「政治ゲーム」をしていることは間違いありません。ただ、今回の事態をあまり深刻に受け止め、「米中が今にも戦争を始めるのではないか」「いよいよ日本も有事に備えなくてはならない」と極端に考えることには賛成できません。最近漏れ伝わってくる情報によれば、米中ともに意思疎通を図り、戦争を回避するための安全措置は講じていたらしいのです。
それはどういうことですか?
ペロシ下院議長一行が台湾を訪問する4日前の7月28日、バイデン大統領と習国家主席は電話会談を行っていますが(そのこと自体が信頼醸成措置の一環と言えます)、『ウォール・ストリート・ジャーナル』8月12日付記事によれば、中国側に米国と戦争をする意図はなく、両国が「平和と安全を維持」すべきことを習氏が伝えてきた由です。バイデン氏も中国の内政に干渉するつもりはないと述べたとのことですから、お互い表面上は対決姿勢をとるにせよ、ある限度内に行動を抑制することは織り込み済みだったのでしょう。
また、ペロシ氏の訪台はパフォーマンスに過ぎず、実際には米国も中国も関係改善の方向に政策の舵を切っていると指摘する論者もあります。
何年か前、国際的な学術会議に参加したときのことを思い出しました。ある日本の研究者が、米中関係の悪化を憂い「両国が和解できるよう日本が橋渡しをしなくてはならない」と発言したところ、中国側の参加者の一人が、「それは不要です。日米以上にわれわれ中国と米国は頻繁に連絡を取り合い、意志疎通ができていますから」と述べたのです。やや高圧的で嫌味な発言だなと感じたものの、それが実相に近いのかもしれません。
各種ニュースによれば、党大会を終えた習近平氏は、11月15日~16日にインドネシアで開かれるG20サミットに出席し、その折にバイデン大統領との直接会談を行う意向であると伝えられています。
わが国が米中の軍事対決ばかりにとらわれ、一方的に米国に加担し、中国を仮想敵国視する安全保障政策を推し進めることは、大きな錯誤かもしれません。
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河原地英武<京都産業大学国際関係学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもある。俳句誌「伊吹嶺」主宰。