かわらじ先生の国際講座~香港への「国家安全法」導入問題

去る528日、中国全国人民代表大会(日本の国会に相当)が香港への「国家安全法」導入を採択しました。これには香港市民だけでなく諸外国政府や国際世論が強い反発を示しています。いったい何が問題となっているのでしょう?
まず少し歴史的背景を説明します。1997年にイギリスが中国へ香港を返還するにあたって、50年間は香港に「一国二制度」を適用することが約束されました。つまり香港は中国の主権下に入っても、2047年まではイギリスが統治していたのと同じ制度(自由民主主義と資本主義)を享受できると決めたのです。イギリスや香港市民とすれば、50年後には中国本土が「香港化」しているだろうと期待したわけでしょう。他方、中国政府からすれば、50年後には香港を「本土化」する心づもりだったと思われます。

昨今の動静をみますと、着々と香港の「本土化」が進んでいる感じですね。ところで中国本土が香港に導入しようとしている「国家安全法」とは何ですか?
これにも歴史的背景があります。香港には「香港基本法」という法律が制定されました。原則として中国の国内法が及ばない、香港独自の憲法のようなものです。これで香港の自由と民主主義が保証されたのですが、中国政府としても香港を「野放し」にしておくつもりはなく、香港基本法の第23条で、国家の分裂や政権転覆の動きを禁じる法律を「香港政府が自ら制定しなければならない」と規定しました。つまり「一国二制度」は認めるが、中国政府に逆らわないことを香港自らに誓約させようとしたのです。そして香港行政府も2003年にこの第23条の規定に従い、国家の分裂や政権転覆の動きを禁じる法律(すなわち「国家安全法」)を制定しようとしたのですが、香港市民の大反対に合い、頓挫したという経緯があるのです。

なるほど。そこで中国政府は、「香港行政府が自らこの法律を制定できないなら、中国本土で進めるしかない」と決意したわけですね。それが今度の「香港国家安全法」制定決議につながるのですね。それにしてもなぜ今、この法律を成立させようと中国政府は動いたのでしょう?
危機感と、チャンス到来という2面から説明できるように思います。まずは中国政府の危機感から説明します。新型コロナウイルスの感染拡大問題で中国は諸外国から非難され、国際的に孤立してしまいました。中国国内でも政府の対応の遅さへの批判が起こりました。さらにコロナ禍により経済の落ち込みも深刻です。習近平政権の威信は損なわれ、求心力は弱まったと言わざるを得ません。さらに昨年来、「逃亡犯条例」改正案の撤回に見られるように、香港市民の本土に対する反発は強まる一方で、習近平国家主席の指導力も問われる事態となっています。この「失策」を挽回すべく、習近平政権としては、今こそ香港に対し強く出るべきだと判断したのでしょう。他方、中国政府が「チャンス到来」と考えた理由を挙げますと、これも新型コロナとかかわるのですが、世界がコロナ問題で手一杯で、中国政府の行動に一々目くじらを立てる余裕はあるまいと判断したこと、そして感染拡大防止を名目として、香港における大規模デモを禁ずる正当性を得たということです。今なら反対の声を抑え込んで、一気呵成にこの法律を成立させられると踏んだのでしょう。

しかしアメリカやイギリスなどが中国を厳しく批判し、制裁を科すると言っていますね。国際世論の反発も招いています。
中国政府としてもそれは予測していたでしょうし、織り込み済みだと思います。トランプ大統領は香港に対する貿易等の優遇措置を停止すると発表しましたが、むろんそれは中国政府にとって打撃ですけれども、海外の投資家にとっても大きな痛手となり、何より一番困るのは香港市民です。結局このような制裁措置は、アメリカ自身に跳ね返ってくることになります。それをどれだけ続けられるか疑問なしとしません。

67日付『京都新聞』によれば、香港への国家安全法導入に関して中国を非難するアメリカやイギリスなどの共同声明に、日本も参加するよう打診されたにもかかわらず、日本政府は拒否したらしいですね。中国を過度に刺激したくないという思惑からだったそうですが、これについてはどう見ますか?
第一に、わたし自身も国家安全法の導入には反対です。香港の人たちの民主化運動を「国家転覆行為」などの口実のもとに鎮圧し得る悪法です。常に言論の自由、報道の自由を擁護する側に立ちたいと思っています。
しかし今回、日本政府が米英の反対声明に同調しなかったことはよかったと考えています。まずイギリスは旧宗主国として、香港に対し独自の主張や義務感があります。日本とはちょっと事情が異なります。またアメリカの場合は、現在のトランプ政権が民主主義の擁護者だとは到底思えません。自国民のデモに軍隊を差し向ける政権に、民主主義を語る資格はありませんし、他国を批判する正当性もないでしょう。トランプ大統領が中国の「国家安全法」に反対するのは香港市民のためでなく、中国叩きの一環、すなわち中国びいきとされるバイデン候補者に打撃を与え、大統領選挙で自らを有利にするための打算に基づくものと言わねばなりません。
日本としては米英追随でなく、中国の隣人として、「国家安全法」が香港のみならず中国本土のためにもならないことを説得する役目を果たすことが肝要ではないかと考えます。
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河原地英武<京都産業大学外国語学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。同大学院修士課程修了。専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。俳人協会会員でもあり、東海学園大学では俳句創作を担当。俳句誌「伊吹嶺」主宰。


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