玉川和子さんに聞く戦時中の学校の話

戦後80年となる2025年も間もなく終わろうとしています。「あの戦争に行ったやつが この国の中心にいる間は日本は大丈夫だ、いなくなったときが怖いんだ」と田中角栄元総理が言っていたそうですが、その言葉通り、高市政権下で再び参戦しそうなムードが高まった様に思います。令和の治安維持法とも言われるスパイ防止法制定に向けた動きも気になります。当時を知る人に色々聞いておきたい。今回は京都文教短期大学名誉教授玉川和子さん(93歳)に戦時中の学校などについて聞きました。

画像なし戦時中の学校は、どんな様子でしたか?

通っていた小学校にも女学校にもカーキ色の軍服を着た軍属の人が常駐していて、体操をしている様子等を見たりしていました。「いらんこと言うたら、あの人らに怒られるで」とよく言われました。でも、実際に怒られて、どこかに連れていかれたりすることはありませんでした。何のために来ていたのかわかりませんが、校内を巡回することで監視したり、威嚇する様な雰囲気がありました。昭和15年(1940年)頃は「紀元2600年」で様々な祝賀行事が行われ、世間は華やいでいましたが、その頃には既に軍隊が学校にいた様に思います。

画像なし当時の学校には特別な建物があったと聞きますが・・・

当時はどこの小学校にも体育館や講堂の裏辺りに「奉安殿」という建物がありました。鉄の扉が閉められていて外からは見えませんでしたが、中に天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語が納められていました。旗日(※)など何かの行事がある時には、素手では触れないので白い手袋をはめて、奉安殿の扉を開けて御真影と教育勅語を出し、講堂に運んで来て、そこでみんなが拝んでいました。生徒は勝手に奉安殿の中に入ることは出来まぜんが、朝、登校して来たら、奉安殿の方角に向かって敬礼をしてから教室に入ることになっていました。生徒達はみんな教育勅語を全文暗唱する様に言われました。

画像なし戦争中の空気をどの様に感じていましたか?

戦争中はとにかく誰かがいつも後ろについている様な感じがしていました。実際についている訳ではなくても、そうした気配が漂っていました。治安維持法で処罰された人もいたと思いますが、身近に感じたことはありませんでした。ただ、何でも町内単位で動くので、どこの家が見張りをしているとか、あそこはどうこうと噂の様なものはありました。そんなこと大きな声で言うたらあかん、余計なことを言って軍属の人に知られたら大ごとだ等とよく言われ、自由にものを言えない雰囲気でした。

※旗日・・・国民の祝日。国旗を掲げて祝意や記念の意を表す日。

玉川和子さんに聞く戦中戦後の暮らしの話(お正月について伺っています)はこちらから

■玉川和子(たまがわ・かずこ)
1954年京都府立大学卒。京都文教短期大学名誉教授。社団法人京都府栄養士会元会長。


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