自分を見つめる脚本講座

イラスト:あきやまののの

脚本講座をひさしぶりにやりはじめた。この10月。
演劇不毛の地、なんてことをいうとまことに失礼なのだけれど、小劇場、と呼べる会場も見つけられないこの今治の街に、演劇をつくるひとたちを再び発生させるのだ、という遠い試みだ。それを、とても若いとは言えない男女が、みかんの会、という人たちが志したものだから、私は乗ることにした。
自分を見つめる脚本講座。そういう名前にした。そう。脚本を書く作業って、なんのためにいいのか。健康にいいからやるのか。認知症予防になる頭の体操なのか。いやいや。自分を見つめるからいいのだ。私はそういう看板をあげて人を集めましょうよ、と提案した。

脚本を書くと、途中で絶対にいやになる。いや、途中、ではない。書き始めて早々に、いやになる。うまく書けないからいやになる、というのは心の中の1割くらいだろうか。9割は、僕みたいなのが書いたところでなんのためになる?とむなしくなるのだ。世の中は僕なんかがなにか書くことを求めていない。だれもこんなもの、待ってない。と。
いやいや、それでも書かなきゃ。書こう、って決めたのだから。書けよ、って講座の先生が呼びかけたのだから。…いやいや。たとえ講座の中で原稿を出したところで、だからといって、講座の場から一歩出たら、そんなものなんの意味もないただの紙きれだ。そうでしょ?
――書く、ってことは、そういうふうに深刻にシラケたがる自分の中の自分との闘いから始まるのだ。
シラケた気分の中で一文字一文字を考え、紙の上に刻み付けるのは、もうまことに、「砂をかむような思い」というのはこれだ、ってくらい、むなしくつらくさみしくみじめな作業になる。だから。そこをまず考えよう、ということから書く作業は始まる。
脚本をどうするか、どんな筋にするか、どんな登場人物にするか、みたいなことはもう一切考えない。まず、最初に「僕が書くことに意味があるのか?」という思考に、たっぷり時間を使おう。
まず、素直に、ものを感じるままに考えてみよう。そう。意味なんかないかもしれない。書くことになんかまったく意味がない。ましてや僕が書くことになんかまったく意味がない。だって理由がないんだから。そう。だったら書くのやめよう。理由も意義もないならもう即座にやめて、外に出て、遠い石鎚山のとんがった尾根の形を眺めながら散歩するほうがよっぽどこのお昼は得した気分になるはずだ。うん。そうしようか。
とそこまでいったん考えた時に、心のどこかに残るなにか、未練のような、悔しさのような、そんなものが見える。いや、いったんはそういう全否定を前提にしたときに、初めて見えてくる否定しきれない肯定のかけらみたいなものが、そこに見えてくる。――だって。誰が否定しようが、どこか僕の中に、書きたいっていうなにかが、気持ち?焦り?さみしさ?消しゴムの消しかすみたいな机の上に残る、よく見ないと見えないようなそのなにかゲジゲジしたごみみたいなのが残ってる。それはなんだろう。なにを僕が未練してるんだっていうんだろう。
僕が、誰とも交換できない僕なんだ、って主張したい、そういう僕のことだ。まとめて扱われたら大阪人のひとり。60代のおじさんのひとり。阪神ファンのひとり。いろいろ、分類のされ方はある。分類して名付けたら何万人かのよく似た類型のひとりだと言えなくはない僕だけれど、いや、違う。違っててほしい。それじゃ生まれたからただ生きてるだけの、死なないから生きてる程度の、生殖活動して後世代を残すためだけに生存がある程度の、生物だから死なないように頑張ってるだけという程度の、そんな意味にしかならないブツになるじゃないか。そうなのか。僕が感じてきたあんなこと、こんなこと、あんなどうしようもない焼けるような飢えを感じた夏の夜は?誰もいない山道をバイクと一緒にさまよった冬の朝は?絵にかいたような霧の中に消えていくあの女子に絵にかいたような声を出して別れを叫んだ嘘みたいな冬の日は?あんなこんなことは、とてもただの生物のそんなこととして済まされようがないなにかではないか?済ませてしまっていい程度の色あい、匂い、高さ、冷たさ、そんなものだったろうか?
百歩譲っても、そんなことはなかった。千歩譲っても、万歩譲っても、二度と戻ってこないあの時間が、もう捨ててしまわないといけない断念の重さと一緒になって、低い温度で渋い光彩を放っているじゃないか。
……全否定せよ、全部否定せよ、と自分のことに向き合えば向き合うほど、磁石のS極同士を押し付けあうみたいに、その間になにかが強く存在を示す。そうなったらこっちのものだ。書こう。書けばいい。間違いなく存在しているなにかの価値が、そこにあるのが確かめられるのだから、それをただ、そこにあるように過大でもなく過小でもなくあるがままに文字にして落とせばいいのだ。
それをただ、まず、はっきりさせましょう。私たちはひとりひとり、交換できない、唯一無二の質を持つ、私なのだ、ってことこそが、書くための唯一で確かな理由です。そこにたどり着くために、私はいつも小一時間、二時間、ただ白いノートにだらだらと、他人があとから読んでも意味が成り立たないようなつぶやきを書き留めてます。書き始める前に。恥ずかしいけれどこれが私の書くための秘密の作業です。
――そうして、私は受講生に白い紙を前にするように促す。たとえばです。あんまりよくわからないだろうけど、10分、書きましょう。私が今、いちばんとんでもなくうれしいこと、でもいいし、かなしいこと、でもいい。そう。選ぶなら、かなしいことにしましょう。それはなにか、書いてください。肝心なのは、私に見せなくていい、ってことです。隣の人にも。誰にも読ませない文章を、書いてください。自分しか読まないから安心して、自分の中のなにかを書き落としてみてください。コツは、筆を止めないこと。筆を止めないでただ心の中にあるなにか悲しみを求める動きを書き落としていると、きっと、全否定のむこうになにかが残るのが見えてくる、と私は信じますよ。
私たちはなんのために生きているのか?そして生きていくのか?それを確認するという壮大な試みが、脚本を書くってことだ。それが確認されたら、もうそれはどんな金銭的な利得にもかえがたい、宝を手に入れた、ってことだ。だから、私は、そういうことになるんだ、ってことを書いてみて初めて気づいたから、人に勧めたいのだ。
そして、自分が、自分の中の肯定できる自分をみつめた、ってことは、他の人だって他の人の中に肯定できるなにかを見つめたのだ、って確信できる根拠だ。脚本講座は、脚本を書くお互いが、あんたも見つめたんだね、と言語ではなく、言語以前のなにか存在の気配のような地点で察知しあう場になるはずだ。他人の中にそうした価値を見つけることは、つまり、全世界のものを考える人にもそれがある、と確信することだ。確信が得られたら、もはや戦争はできない。人がなにかの人間集団の都合、だれか権力者の都合、そんな都合で虫けらみたいに殺される、殺しあわされるなんてつまらないこと、肯定できるはずがない。
イスラエルの国の中で、演劇人が演劇できなくなって、ガザ地区への虐殺行為は歯止めを失った。人が人のことを感じる作業を失ったら、ああいうことになる。脚本講座をやることは、深いところで進める平和運動なのだ、と私はどこかで信じてる。
そして、私の私のためにやる脚本講座が、こんどやる11月の上演に成果となってあらわれるはずだ。今私が、私を見つめて、なにが出てくるのか。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)
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2025年11月23日 上品芸術演劇団プロデュース 3本連続上演企画「この世界と風と」

「とうさんがしんぱい」鈴江俊郎 作・演出。
出演……城間里沙子・鈴江俊郎

ほかの作品は
「炊き込みご飯 ベスト50」室屋和美 作・演出
出演……南出謙吾・室屋和美。
「また、この風」南出謙吾 作・演出
出演……南出謙吾

伊予西条の■Ishizuchi倉庫にて。
前売・当日2,000円。


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