
私ははじめ、傷ついた。結果として、排除を肯定するレポートがいくつも提出されてきたからだ。つまり村井教授が「調教」していないのは明らかだ。だけどほら言った通りじゃないか。私は悲しみと、憤りに身をよじった。こんなふうにしかどうせ感じない奴らがいるんだから、そんなのわかってたんだから、私は東京まで行って教室に乱入して演説をぶちかましてやればよかった、と。反発するならしろ。“意識高い系”と軽蔑するなら勝手にしろ。俺っちは偏った人権派だぞ!ひとりの表現は地球より重いんだぞ!と。
けれど村井教授はまだまだあくまでも落ち着いている。確かに、彼らの中の一部では、脳内の議論は深まっていないようだ。現代の若者たちは傾向として「どうあるべきか」よりは「どうしたらうまくいくか」を優先する。さすが、いじめのある教室という閉鎖社会を生きのびてきたサバイバーたちだ。どんな正しいことを言ったところで、生きていけなきゃ元も子もない。目立って目をつけられたり、排除の対象にされたりしたら教室ではおしまいだ。意味がない。…そうやって深い思考を避ける戦略を身につけているからこそ現代を生きられるのだ。彼らを支配するのは、無意識の恐怖だ。そこから少し自由になれるような授業の進め方はないか?教授は修正を重ねながら、上演の試みは続いてきた。
私は、もういいじゃないですか、と伝えたくなる時が正直、ある。私は若者の気持ちになって憤って運動してるのに、だれよりも味方になってほしいその若者から「排除OK」と意見されるなんて、もうそれこそどうなんだ?なんのために生きてるんだ俺?死ね俺。無意味だ俺。…一般世間から否定されるのは慣れてる。だけどさらに自己否定が内部から湧き上がったらもう立つ瀬がないとはこのことだ。
おそるおそる今年も教授からのレポート報告を読ませてもらった。いろんな意見がある。「しかし、それでも彼女らは今回実際に作ってみて、もし自分たちがああいう目に合わされたらどう思うかと真剣に考えたのだと思います。」――これが、教授の総括だ。
演劇をこの授業内で体験した学生の多くは、やはり、気づいたようだ。「表現は排除されてはならない」と。
私も慣れた。この授業のレポートを落ち着いて受け止める度量が身についたと思う。
しかし。なんなんだろう。そもそもこの気配は。若者たちの思考のノンポリぶりは。政治問題への不慣れ、無関心ぶりは。嵐のあとに、荒れ果てた田園の風景を見渡すような崩壊感覚の中で、私は考えた。
もしかしたら、彼らの未熟のせいではない。私が学生だった四〇年前とは、状況が違う。社会は下降している。若者が持つ予感は、ひどく悪い。それが自殺に向かわせているのか、全国で去年一年間に自ら命を絶った子どもは五百二十九人。過去最多。日別の十八歳以下の自殺者数は夏休み明けにあたる『九月一日』が最も多い。この九月、若者はこんな九月を迎えている。
私たちはもう二〇年ほどしたら死んでこの舞台から退場するけれど、七〇年も八〇年もこの舞台にいないといけない若者には、直視する気力もないのかもしれない。「この事件で、大人たちは百年後二百年後の世代に問題を先送りした」と書いた学生がいる。違う。「十万年後の世代に」だ。そんなぬるい数値ではない。核汚染物質、猛毒プルトニウムの半減期は十万年。恐ろしい数字だ。それを今世界は、大人たちはさらに増やそうとしている。この怖い事実を、学生たちは、ぼんやり知っているだろう。だけど、どうにもならないから、成り行きに任せてゆでガエルになるのを待っている。「百年後に先送り」みたいなのんびりした文を書いて。そんなしんどいバランスにいる彼らが、学校で、狭い教室に詰め込まれて、若者同士、心開いて仲良くできるだろうか。いじめ、疎外、孤独を感じる不登校の子供……九月。無理だ、助けて、と声が聞こえてくる。
けれど。そう。共立女子大学の学生たちは、それでも、真剣に考えたのだ。村井教授はそう総括した。私も、そう、思おう。それは希望だ。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)