玉川和子さんに聞く空襲の話

太平洋戦争中も京都は空襲が比較的少なかったと言われますが、1945年(昭和20年)6月26日の西陣空襲は死傷者109人、被害家屋292戸の大きな被害が出ました。西陣空襲から80年、当時の京都の様子を京都文教短期大学名誉教授玉川和子さん(93歳)に聞きました。

画像なしまず、空襲を知らせる警報について教えて下さい。

敵機が来襲する可能性がある時に発令される「警戒警報」と、より危険が高まった時に発令される「空襲警報」があり、サイレンの鳴り方が違いました。警報が発令されると、町会長さんが「警報が出たから、外に出てはいけない」とマイクで呼び掛けていました。警戒警報が鳴った時は夜であれば「灯火管制」として電燈の周りをエントツの様なもので覆い、窓は閉め、黒い暗幕をして、室内は明かりをつけていても、外に光が漏れない様にします。警戒警報の時は外に漏れない様にして電気はつけていましたが、空襲警報の時は電気を消して真っ暗にします。

画像なし防空壕について押してえください。

どこの家にも空襲警報が出た時に避難する防空壕がありました。当時はなんでも町内単位で責任をもち、兵隊に行って、男の人がいない家には町内から防空壕を掘りに来てくれました。うちは納屋の下に作りましたが、庭に植木があると根が張っていて掘れないので、そうした太い根っこをのこぎりでひく作業が必要でした。家と別に町内に1~2ケ所の防空壕を持っていて、自分の家に防空壕がある人も「情報を得るのが大事だから」と言って、隣組の防空壕に行っていました。防空カバンを持ち、防空頭巾を被って、そこに入るのです。警報が解除されたら、またメガホンで知らせて来るので、一斉に家に帰りました。当時は町内会がとてもしっかりしていました。町内に小さいお風呂の様なセメント製の水槽があって、そこに溜めてある水を使ったバケツリレー訓練を隣組単位でしょっちゅうやっていました。

画像なし空襲警報が出ている時に家の中に留まっていてはいけないのですか?

空襲警報が出たら、腕章をつけた男の人達が「逃げましたか~」と言って一軒、一軒まわって、家がちゃんと空になっているか確認してまわっていました。当時は町内や隣組がひとつの単位だったので、何かあったら町内の責任になるからです。度々警報が出るので逃げるのが嫌になっても、家にいると監視が来るので、逃げないといけませんでした。学校に行っている時に空襲警報が出たら、みんな机の下に入っていました。通学途中ならどこに隠れろという指導がありました。

戦後60年の平成17年西陣空襲被災地の辰巳公園に建てられた「空爆被災を記録する碑」。上長者町通・大宮通・下立売通・浄福寺通に囲まれた約400m四方の地域で300戸ほどの家屋が被災。西陣警察署の記録によると死傷者 即死43人、 重傷13、軽傷53人、 計109人。被害家屋 全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸、292戸。罹災者850人と記されています。

画像なし西陣空襲については、どの様に記憶していますか?

京都は空襲が少なく、上空をB29が飛んでいると報じられても、京都は大阪に向かう途中に通るだけで、警戒警報等もすぐに解除されました。けれど、ある時、ドカーンと大きな音がして、ビックリしました。後になって西陣の「山中油店」の近くのお寺(昌福寺)の井戸に1トン爆弾が落ちたと聞きました。爆風で墓石が反対を向いたそうです。でも、当時は報道規制がされていた為か、被害はそれだけで済んだと聞きました。多くの死傷者が出た、家屋が被害を受けたと知ったのは、最近です。京都の空襲は西陣と馬町の2回※だけだったと聞いていました。

※京都空襲とされるものは京都御所を含めて5回、一説には41回の空襲被害があったとも言われます。

被災当事者の記事がありましたので、参考にリンクします。


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