
同僚達が毎年のようにやって来た。
それこそ楽しかった。来る数日前からソワソワして準備に取り掛かっていた。何をご馳走してやろうか。どこへ連れて行ってやろうか。考えるだけでワクワクした。今のように面倒だなどとはこれっぽっちも思わなかった。それは、彼女がいたからだろう。
いつもは同僚2人が来るのだが、多い時は5人も来たりした。おれが知らない若い後輩まで来ることもあった。
彼等はなんと、チャリで来るのだ。職場のツーリング仲間だ。新潟まで新幹線で来て、在来線に乗り換え村上で下車する。そこでチャリを組み立て日本海の絶景を眺めながら快走する。その日は鼠ヶ関(鶴岡市で新潟との県境)の民宿に一泊して、酒田を目指して北上する。で、家に泊まる。更に北上して秋田まで行くこともある。
家には5人分の布団はない。東京にいた頃キャンプで使った寝袋で我慢してもらうしかない。雑魚寝同然だがしょうがない。
初めは彼女がいたものだから驚かれた。女房とは違う人だから当然だ。おれは彼女を紹介したかったし、彼女も喜んでくれた。おれが席を外すと彼女は質問責めに合う。馴れ染めがどうのと聞かれる訳だ。彼女は余計なことは一切言わない。核心に触れると上手くはぐらかす。彼等より彼女の方が一枚上手だったとおれは見ている。
「そんなこと聞いてどうすんだ。おれに聞けよ」と言っても、おれは半分酔い潰れていて話にならない。もう次からは彼女に会いに来るようになっていたのかもしれない。
そんなこんなで、今では最初から来ている2人しか来なくなった。それも一人で来る。体力の衰えもあり、チャリでの遠出は止めたそうだ。彼女が亡くなったから、おれを気遣って来てくれるのだ。
料理はよく作った。本当に懐かしい。今でこそ来客の時は外食だが、大変だなんて思ったことはなかった。岩ガキの炊き込みごはん。サザエのカレーライス。貝類のチャーハン。バイ貝煮付け、ナマコは酢のもの、アワビはバター蒸しに。でかい中華鍋でガツガツガガガと豪快に炒める。
魚の刺身は厚切りにして、鮭は塩焼き以外に野菜やチーズとのクリーム煮。ミズダコは大鍋で茹で、ワタリガニは蒸してと、挙げたら切りがない。
お金はこういういざという時に遣うものだと大盤振る舞い。ん?!全て漁師さんからもらったものばかりなのだ。「なんちゃって斎藤旅館」へようこそ。ゆっくりしていってくれ。もう最高の気分としか言いようがない。彼女も元気で楽しそうだった。この頃がおれの人生の華だったかもしれない。今、しみじみとそう思う。
もう一昨年になるが、大晦日の朝、同僚から「今から行ってもいいかい」と電話があった。外車を買ったから車で来るという。大渋滞で夜になると思っていたら夕方に着いた。思いもせぬ楽しい年越しとなった。
年が明け、温泉でのんびりしようと酒田の北の海沿いの宿「遊楽里(ゆらり)」(遊佐町)がとれ、早い時間から大浴場に浸っていた。すると、「ゆらり、ゆらり」と揺れ出したのだ。地震だった。暫くすると「7階にすぐ避難して下さい」との館内放送があった。それが能登での大地震だった。ここにも80センチの津波が来るというので海を眺めていたが、すぐに暗くなり何も見えなくなった。能登はそれこそ大惨事となっていた。酒田も避難騒ぎの様子がローカルニュースで映し出されていた。
翌2日は山の方へ逃げようと、肘折温泉(山形県新庄方面)に行った。ここは積雪が4メートルを越える日本有数の豪雪地帯だが、この年はまだ雪がなく、安心して再びゆっくりと温泉に入り直した。
後で知ったが、おれの妹の娘夫婦が能登の七尾市に転勤になっていたのだった。アパートは傾き、窓ガラスは割れ、死ぬ思いだったという。避難所は環境が悪すぎて何日かは車中泊をしたが、にっちもさっちもいかず東京のダンナの実家に逃げて来たとのことだった。無事で何より。本当によかった。
それにしても、災害が多すぎる。能登の大地震、更には9月の大雨による復旧さ中の二重被害。酒田の記録的大雨。南海トラフの前兆など、日本は災害列島さながら、これが当たり前になっている。東京も日差しがあっても連日突然のゲリラ雷雨だった。全くどこも尋常ではない。油断禁物。災害に備えて常日頃から用心することにこしたことはないが、どこに逃げたらいいのか分からなくなる。おれんちは多くの人が襲来する避難所だなどと笑っている場合ではない。
「生活の柄」(71年)という歌がある。高田渡が山之口獏の詩に曲をつけて歌っている。「歩き疲れては、夜空と陸との隙間にもぐり込んで、草に埋もれて寝たのです、所かまわず寝たのです」。何だか世の中が本当にこうなってしまうんじゃないかと思ってしまう。
彼女がいた頃の来訪は同僚達の間では「それにしてもよく決断したものだ(彼女がおれと一緒になったこと)」などと語り草になっている。まるで昨日のことのように思い出す。そんなぬくもりが波や風のように広がって行くのだが、いつの間にか遠い記憶の中に消えてしまうしかないのだろう。
おれは皆が来る度にヘトヘトだった。でも、ありがたいという思いと楽しみでしかなかった。それは、彼女がいたから辛いことや何もかもがぶっ飛んで行ったんだと思う。
酒田も梅雨でうっとうしい雨が続いているが、そんなことはどうでもいい。レイン(66年)、ビートルズも歌っている。「レイン、気にするな。気分次第さ、わかるだろ」。その通りだ。
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斎藤典雄
山形県酒田市生まれ。高卒後、75年国鉄入社。新宿駅勤務。主に車掌として中央線を完全制覇。母親認知症患いJR退職。酒田へ戻り、漁師の手伝いをしながら現在に至る。著書に『車掌だけが知っているJRの秘密』(1999、アストラ)『車掌に裁かれるJR::事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』(2006、アストラ)など。