
大学生演劇には今まで全国コンクールがなかったのだ。だからおそらくコンクール育ちの高校演劇生徒たちは動機が持てなかったのだ。しかしこれからは持てるかもしれない。しかしじゃその先、社会人になったらできるのか?――できるのかもしれない。じゃそうか。盛り上がりは全国規模をどの段階でも設定すればいいじゃないか。演劇は盛んになる!
そうか?私は印象派が美術の世界の登場した「落選展」っていうのを思い出す。彼らはパリの権威のあるコンクールに落ちた人たちだ。人を人とも描かず、形もあいまいでへんてこな光の粒みたいなのを気まぐれに描きなぐったキャンバスは権威ある審査員たちに足蹴にされた。悔しいから門前のギャラリーで「落選したのは俺っちよ」とたばになって展示したのが世界を変えたのだ。
いや、その後彼らが世界の主流になったから言うのではない。「なにかの権威」に採点されていい点を取る、ってことは、いいことなのか?特に芸術に関しては意味あることなのか?「勝つ」とか「負ける」とか意味あるんだろうか?芸術で、だ。
あっちの演劇作品のほうがこっちの演劇作品より上、っていうことがだいたいなんちゅうか原理的におかしい。矛盾してる。うえ?した?そんな価値基準にとらわれない「自己」のまとめ方を探るのが、芸術という営みではないのか?誰かに褒められようが褒められまいが、世界で交換できない唯一の自分ってなんだろうか、って問い続けるその日々を「芸術の日々」というのではないのか?
いやわかる。ほんとにそんなこと、おたく決めてやっておられるんですか?って正面から眉毛の真ん中に指つきつけられたら、答えに窮する。一瞬は。もちろん。誰かに見てもらいたい。ほめてほしい。いや、見てもらわないと、感じてもらわないとなんだかやってる意味はないって感じてる。おそらく、その世界にひとつしかない自己が、自己にだけ確認されることがあったとしてもゲイジュツする人の心は実際のところ幸福を感じない。他者だ。なにより重要なのは他者だ。他者によって確認され、理解され、共感されることがあってこそ、この自己がいやされる。自己の表出が、幸福な事件として完結する。自己の表出は、きっと誰かによる容認、承服を求める作業なのだ。――ほら見ろ。ほめられたいんでしょ?
しかし、しかしだ。それはきっと、認められたらなんでも幸福よ、てな安易なものでもないはずだ。認められたさが目的なら、他者が感じてそうなことを感じてるふりしてそこに書けばいい。今皆が感じてることはこれじゃないかな、と自分がかけらも感じてないことをまことしやかに上手に描けばいい。だがしかし、そんなことではいやされない飢えが、のどに残るでしょ?そうやって認められてるのはほんとの自分ではない。ウソの自分だ。作り笑いしてれば美人よ、って言われる美人はきっと孤独だ。私は私が私でいることを、認めてほしいのに。
「つながり孤独」っていう言葉が今、ある。オンライン、SNSなどで今の若者は昔の若者より多くの人数と24時間つながっている。つながりが多いと孤独は遠いはずなのに、逆だ。孤独は増している。それは「つながりの中では偽りの『好かれそうな自分』を維持しないといけない」という要請に支配され続けるから、結果として自分の真ん中にいる自分はぽかりとうつろを感じるのだ。
それに、鑑賞する立場でいる芸術好きの自分が感動する作品というのも、「多数派から見捨てられてもかまわない、ってふんぎってるこの作品」「そこまで覚悟して自分を見つめた作品」ではないのか。その作品の勇気、孤立をおそれない自己洞察にこそ、その分強い連帯感を感じ、孤独は見ているこちらも癒される。
この見るものと創るものの交歓にこそ、芸術行為の核があるのであって、その高次の核の実現を夢見て私たちは日々もがくのであって、それはつまり「勝ち負け」「見る人の多さ、つまり人気」などに還元されるものではないはずだ。創るものの高き結晶を求めれば、どんどん客の鑑賞能力の高さを求めることになり、それはもしかしたら誰にもわからない「無敵の自己満足」に終わってしまう危険もある。しかし、そんな危険も顧みず、私たちは求めたいのではなかったか。
こんな求めたい気持ちをこそ、私は内発的動機、とよぶ。内発的動機はしかしゆるぎなくて強いわけでもない。外発的な動機付け、賞やらコンクールやらの誘惑に、その根っこがぐずぐずと揺るがされることしばしばだ。賞を得て、コンクールに勝ってきた。だからこそ、長い表現生活の中でどれだけ自分がそんなもののない日々で動機を失いそうになったか、いやというほど知っている。しかも演劇は集団のプレイだ。役者たちが賞やら、金銭的報酬やら、有名になるという虚栄の報酬やらに鈍麻され、初心から離れて稽古場が哀れな動機の低いやりとりになる成り行きも限りなく体験してきた。
コンクールは、現場を一つにまとめやすい。金銭欲は現場を一つにまとめてくれる。有名になりたい欲は団結を産むだろう。だけど、どうなのか。それは私たちの創るものを、……
あとは自分で考えてほしい。若者はわかったような顔をして愛想良くうなづいていた。私は、彼の笑顔が信じられない自分を醜く思った。苦かった。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)