
演劇を地方でもりあげよう、とか、学生でもりあげよう、とかいうことのために、最近「大学演劇の全国コンクール」なるものが作られている。実施され、本州・日本海側の県の大学生などはそこで賞をとるのだ、と一生懸命だ。そんな学生が、私に楽しげな向上心いっぱい、の演劇生活を語ってくれた。
楽しそうなのだから、にこにこ聞いていればよかったのに、私は心の狭い先輩だ。話が長くなるにつれて違和感で胸いっぱいになって、この気配を読まないこの若者の話はなにかの賞をとった自慢にもなってったものだから、申し訳ないが全面的批判、自説の全面展開、という流れになってしまった。
コンクール主義って、ご褒美があるから演劇つくる、っていうタイプの人をたくさん作る装置だよね。ご褒美がなくなったら演劇つくらなくなる、って人をたくさん作る装置なんだよ。別にマイナーでもない心理学の実験がある。もともとお絵描きが好きな幼稚園児20人を集める。10人には「これから毎日絵を描いたらドーナツあげる」って約束する。10人にはなんにも約束しない。1週間続ける。1週間たって、「もうドーナツはなくなっちゃった」と告げる。その日から、ドーナツもらってた子らは絵を描かなくなる。ドーナツもらってなかった子は相変わらず絵を描く。好きだから。
日本では以前の日大アメフト部のように暴力の罰を背景に苦痛に満ちた練習を長時間受け身でさせる体育部のほうが、全国大会優勝校になれる確率は高かった。だから名門運動部というのは体罰、モラハラ、暴力と上下関係の強制が支配してたものだった。私のいた50年前の大阪府立中学にあった凡庸な準硬式野球部もそうだった。エラーするとケツバット。声が出ていないと下級生だけグランド10周。
しかしそういう強制、負の動機づけは自主的な練習を産まない。苦痛に満ちた練習、というが、肉体的な苦痛よりも、むしろ奴隷の屈辱を忍従し続ける精神的な苦痛のほうが強かったのじゃないか。どこかでそれを美化しないと自分の存在を肯定できないほどのものだった、と言えるのではないか。私も心のどこかで、あの地獄の日々を肯定したい気分が奥の方にある。不思議だ。
暴力や強制、ご褒美でつるような短期的に効果のある方法は、確かに短期的には効果が高いのだ。きっと。短期的には勝てる。あるいは盛り上がる。いやな話だが。
しかし強制でなく、正の動機付けでさえ、自主的な練習をそれほど産まない。外発的な動機付けというのは内発的動機付けよりもはるかに弱いのだ。
『明日のハナコ』の事件を体験して、私は高校演劇というものに、醒めた。「名門校」演劇高校生の多くが、そののち大学生や社会人になったら演劇を続けないという現実を見てきた。もちろん例外はある。けれど、私の観察によると例外的と言えるほど少数なのが現実だ。全国大会出場の脚本を書いた東大生は東大演劇界にデビューしなかった。なんだか張り合いがないのだ。全国大会出場の役者たちは、大学演劇専攻では自己主張が乏しかった。ファイトを前に出してリーダーになることもなかった。おそらく部は教員が牽引して、部員は秩序に従っていい子にしてたら受け身のままパフォーマンスが実現していた、その癖だ。
コンクールが設定されると、「勝ちたい」と思う。それが参加者の普通の心の変化だ。「勝つ」演劇がよいのであって、「負ける」演劇は下だ。価値が劣る。順位付けを公開で堂々とされると、そういうふうに思うのが普通だ。