ビートルズ~サムシング

出羽富士と言われる、庄内酒田の秀峰鳥海山(撮影:塔嶌麦子)

風薫る5月。若葉の頃だ。爽やかな風が部屋の中を踊る。今日もお前を乗せて、懐かしいメロディが流れている。
音楽は人を元気にする。何でも好きなのでビートルズだけを聞いているわけではない。でも、演歌だけは好きになれなかった。上手く言えないが、子どもの頃に初めて受けた印象、感触というのか、それは一生付きまとい、頭から離れないものだと思う。その傾向は強烈であればある程強いのではないのか。
子どもの頃の家での娯楽といえば何といってもテレビだった。歌謡番組には釘付けだった。耳にたこが出来る程聞いて、意味は分からなくても空で覚えて口ずさんでいた。「逃げた女房に未練はないがぁ」。小学生に分かるはずがない。
テレビの中の歌手はどれも豪華絢爛な衣裳をまとい、まるで夢のようだった。憧れがないといえば嘘になる。だいたい東京がどこにあるかさえ分からなかったのに、東京はやっぱりスゴイと思った。だが、ド田舎の酒田のおれのようなガキには関係ないと思った。おれには手の届かない雲の上の存在だとしか思えなかったのだ。
当時のおれの服装といったらつぎはぎだらけで、夏なら肌着のランニングシャツ一枚。父親でもステテコ一丁で外に出てもその辺なら平気だった。テレビは別世界でどうでもいい。虚像なのだと子ども心に思っていたのだと思う。そんなことより、おれは派手な化粧が嫌いだった。テレビだから臭いはしないが、気持ちが悪くなるのだった。
人とは違う偏屈なガキだったのかもしれない。そのくせ、何か特別な時などは、母親から着せ替え人形のように普段は着ない服を着せられると喜んでいた。「馬子にも衣装」などと言われると、その意味はわからないのに親と一緒になって嬉しがっていた。やっぱり変なガキだったのだ。
高校を出ると上京した。数年後に石川さゆりの「津軽海峡冬景色」(77年)が大ヒットした。これにはやられた。ふるさと酒田への思いが一気に爆発した。そして、八代亜紀の「舟唄」(79年)、30代になると吉幾三の「雪国」(86年)と立て続けの演歌一色の様相を呈した感じだった。どれも北国のことで、おれの酒田と同じだとしみじみと胸に刺さった。この3曲が演歌嫌いを変えたのだと思っている。済まなかった。これまでが偏見だった。
それにしても、どこへ行っても流れていた。いや、正確には飲み屋でだったが、八代亜紀は亡くなってしまい、本当に残念でならない。
おれは今でもオシャレにはとんと無頓着だ。どこへ行くにもGパンとTシャツというラフな格好だ。清潔であればいい。今は男でも化粧をするらしい。髪を染める、ピアスは当たり前のようだが、もっての外だと思っている。昔の人間と言われても構わない。もうどう見ても昔の人間なのだから。もっての外なのは例えミュージシャンでも同じだ。だが、キヨシローとミック・ジャガーだけは許してしまう。何故か論外なのだ。
ところで、ジャズは高校の頃によく聞いたが、ただのヘタの横好きだった。これも上京してからだが、何気なく入った喫茶店で聞いたことのない知らない曲が流れていた。後で知ったが、「レフト・アローン」(59年、マル・ウォルドロン)という曲だった。暗い曲調だったが、何故かピアノとサックスの重苦しい音色に惹き込まれガツンとやられた。コレダと直感した。
それからは、これまで聞かなかったジャズを取り返そうと手当り次第に聞きまくった。ほんとバカなんだが、それも数年もすると再びビートルズなどのロックやポップスに戻って行った。八代亜紀も晩年はジャズを歌っていた。音楽にジャンルは関係ないのだ。
「ビートルズで1番好きな曲は何?」とよく聞かれる。これには応えようがない。1曲を挙げるのは無理だ。どの曲もそれなりに1番なのであり、その日その時の気分で変わるからだ。
今その「何か」を挙げるなら、ゆうべたまたま聞いた「サムシング」でもいい。「アビィロード」収録のジョージの作品で、ジョージは「自分の曲の中で最高傑作だ」と自画自賛している。また、米国の大御所フランク・シナトラも「この50年で最も素晴らしいラヴソングだ」と大絶賛している。
ジョージの甘く繊細なボーカル。ジョンのすすり泣くリードギター。ポールの転がるベース。リンゴの切れ目のないドラム。どれをとっても涙腺が崩壊してしまいそうになる。感極まりないのだ。どうしてこんなに美しい曲が作れるのか。それは誰にも分からない。分からない。ジョージは曲の中で「アイ・ドン・ノー」と何度も繰り返し歌っている通りだ。
「サムシング」は、「彼女のしぐさの何かが惹き付ける。ぼくの気持ちを知っているかのように」という歌詞だ。
あぁ、なんていい曲なんだ。体中がシビレてしまう。自分のしぐさは見えないが、ジジィそのもの、頑固に見えるだけだろう。
やっぱり、なんてったってビートルズが1番だよ。
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斎藤典雄
山形県酒田市生まれ。高卒後、75年国鉄入社。新宿駅勤務。主に車掌として中央線を完全制覇。母親認知症患いJR退職。酒田へ戻り、漁師の手伝いをしながら現在に至る。著書に『車掌だけが知っているJRの秘密』(1999、アストラ)『車掌に裁かれるJR::事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』(2006、アストラ)など。


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