トルコ最大の都市イスタンブール(首都ではありません。首都はアンカラ)で、5月16日、ロシアとウクライナの代表による停戦協議が行われました。戦争当事国による直接交渉は3年ぶりとなります。ロシア側代表団はメジンスキー大統領補佐官を中心とする、3年前とほぼ同じ陣容、他方ウクライナ側は、ウメロフ国防相を筆頭に政・軍代表者が参加したとのことです。また、トルコのフィダン外相が仲介役を務めました。
果たして具体的な成果はあったのでしょうか?
交渉内容については詳らかにされていませんが、各種報道を見る限り、停戦の実現に結びつくような成果はほとんどなかったと言っていいでしょう。ロシア側の参加者が皆スーツ姿なのに対し、ウクライナ側の多くは軍服姿という点でも、すでに対決姿勢があらわでしたが、交渉時間もわずか2時間程度。しかも使用言語はウクライナ語とロシア語ということで、通訳を介しての話し合いだったようですから、実質的には1時間そこそこで終わったということではないでしょうか。実のある議論などできなかったと思われます。
それなのに両国はなぜ直接協議を行おうとしたのですか?
今回は双方とも、外交的パフォーマンスという面が大きかったように感じます。ロシアとしては、米国のトランプ大統領が停戦に応じないプーチン政権にいらだちを募らせていることから、とりあえず形ばかりの交渉に応じてトランプ氏の歓心を買おうとしたふしがあります。
その点はウクライナ側も同様で、ゼレンスキー大統領としては本気で平和を望んでいるのだということを米国のみならず国際社会にアピールしたかったのだと思います。特にゼレンスキー氏は自らイスタンブールに赴き、プーチン氏にも同じ行動をとるよう呼びかけ、首脳会談の用意があることを示しました。折しも中東諸国を歴訪していたトランプ大統領も、首脳会談が行われるなら自分も立ち会いたいと表明していましたが、ご存じのとおりそれは実現しませんでした。
マスコミはプーチン大統領が首脳会談に応じるかどうか、けっこう注目していましたが、その可能性はあったのでしょうか?
首脳会談の可能性は限りなくゼロに近かったと思います。そもそもプーチン大統領はゼレンスキー政権を「ネオナチ」呼ばわりし、対等な政治主体とは認識していませんし、大統領選挙を延期しているゼレンスキー氏をも正当な大統領だと認めていませんから、同じテーブルに着く意思はありません。また、首脳会談ということになれば、停戦への出口を提示せねばなりませんが、今のところプーチン大統領には戦争を止めるつもりはないのでしょう。
とすると、ウクライナとロシアの直接協議は無意味だということでしょうか?
一応念のために言っておきますと、今回の協議で全く合意事項がなかったわけではありません。①双方は捕虜らを千人ずつ交換する、②双方は停戦条件を文書化して示す、③原則として再び会談を行う、の3点で合意しました(『朝日新聞』2025年5月18日)。しかし、それ以上に今回の協議で大きな意味があったのは、ロシアがさらに侵略を継続する意思を直接ウクライナ側に伝えたことでしょう。ロシア側はかなり露骨にそれをウクライナ側に表明したようです。
それは具体的にどのような内容なのでしょうか?
英誌『エコノミスト』の記者によれば、ロシア代表団を率いているメジンスキー大統領補佐官は協議の場で、ロシア皇帝のピョートル1世がスウェーデンとの北方戦争に勝利した例を挙げ、「スウェーデンとは21年間戦った。ロシアは永遠に戦争を続ける用意がある」と恫喝した由です。また、ウクライナ北東部スムイ州やハルキウ州の割譲を求めてきたとの報道もあります(『讀賣新聞』2025年5月18日)。ちなみにメジンスキー氏は、歴史学博士の称号を持つ学者でもあり、ロシアの歴史教科書の共同執筆者でもあります。
メジンスキー氏の発言は不気味ですね。ロシアには本当にまだ戦い続けるだけの余力があるのでしょうか?
ロシア側の疲弊や戦力の払底を伝える報道もありますが、実際にはロシアは、じわりじわりと侵略地域を拡大させているように見受けられます。わたしは毎日のように、ロシアの軍事侵攻に関するNHKの特設サイトをチェックしていますが、そこに掲載されている「戦況地図」に注目してほしいのです。
赤い部分はロシアが実効支配している地域ですが、それに加えて、今年に入ってから水色の部分がじわりと広がっているのです。その水色部分については「ウクライナ反撃を主張」との注記がありますが、これを裏返して言えば、ロシア軍が攻め込んでいる地域ということになります。わが国のメディアではほとんど取り上げられていませんが、実はロシア軍はもうウクライナ領の三分の一近くを占領しようとしているのです。首都キーウや、黒海沿岸の最大都市オデーサにも、ロシア軍は迫る勢いです。首都が陥落すればウクライナは敗北です。ロシアは交渉するそぶりを見せながら、国際世論の注意をそらしつつ、静かにウクライナそのものの併合、もしくはウクライナの傀儡国家化を画策しているのではないか。わたしはそのような危惧を抱いています。
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河原地英武<京都産業大学国際関係学部教授>
東京外国語大学ロシア語学科卒。 同大学院修士課程修了。 専門分野はロシア政治、安全保障問題、国際関係論。 俳人協会会員でもある。 俳句誌「伊吹嶺」主宰。