
またお芝居をしている。『明日のハナコ』という差別用語よばわりされて排除された脚本にこだわり続けてまた上演をする。こんどは6月1日だ。
2月と3月にやった自分が作・演出・出演した「ニッポン人は亡命する」という作品を見たお客さんが、その作品の素材になった作品、表現の自由を奪われた高校演劇作品自体を見てみたい、という要望をくりだしてきた。そんなの応えないわけにはいかない。呼びかけてきたのは私たち実行委員会だ。全国でこれまで3年半ほどで46都市で上演されている。団体数では35だ。おそらくこれはこの数年に限定したら、この国で一番たくさん上演されてる台本、という名誉にあずかってるのではないか?
というわけで、運動にかかわった者としては何回もこの玉村徹という高校教師の書いた作品の上演を見ることになった。もうこれは内輪もめと言われてもいいから率直に語ると、たいていの芝居は、臭い。「エンゲキ」はこういう感じでしょ、って世間一般の人が思っている通りに多くの人は演じる。セリフの語る意味を強調し、誇張し、大きな息を吸い、大きな声を出し、たっぷりと感情をこめて、相手役のセリフのあとにゆっくり間をとって。それがずっとなん十分も続く。
これは特にこの作品限定の特徴ではなく、こういう表現の自由にこだわるタイプの人たちだから、というわけではなく、思想の左右を超えて、年齢の老若を超えて、性別の男女を超えて、プロアマの区別を超えて、この国の民一般が「エンゲキ」に対して持っているイメージ、心像が無意識に表出されているのだと私は思っている。失礼ながらやはり十分も続くと私には忍耐の限度を超えてくる。見ていられない。しんどい。こんなのを辛抱して1時間も超えてみていられるのは、出演者を溺愛する親御さんか、そこそこ大好きな同級生か、失敗を待ち望んでる意地悪な知人か、くらいだろう。あるいは、なぜか特異にこのような出し物を継続してみていられる「エンゲキ愛好者」。
私はいつも体感する。私はどうも「エンゲキ愛好者」ではないのだなあ、と。演劇人だ、と自称も他称もできる関りが長年あるのに、そのエリアの人と自然な親しい関係がどうも持てない、要するに友だちが少ないのも、そういうことなのだなあ、とさみしく納得する。そして普段のつきあいは「非エンゲキ愛好者」に多いから、彼らが「演劇?すごいね。…行けたら行くね」と柔らかな笑顔で拒絶する感覚をとても理解できる。あんなのよく見ていられるなあ、と私だって思ってるのだから、私の友達なら思うだろう。私の母なんて二度と見に来ない。
じゃなぜいつから私はこんな演劇みたいなことに熱中し始めたのか。私がすごい!と思って見た芝居は、そんなのじゃなかったのだ。舞台には、なにか「ぎりぎりの人」がいた。切迫した状態で、言葉より思いが身体に出ていて、なにを話しているかは言語不明瞭でわからないが確かになにか言いたいことは伝わる、そんな「かわいい」人がいた。
赤ちゃんは、かわいい。言語不明瞭だが、こちらの体感が刺激される。苦しくなるほどのいとおしさが湧く。なにかをこちらに伝えてくるような視線をもらうと、もうたまらない。人は、赤ちゃんをそう見る。私が「すごい演劇」を見たその感覚器官は、言語、説明、理解、納得……そういう知的な器官、思考ではなかった。直接身体のどこかで受け止めた、あるいは全身で受け止めた、あるいは皮膚の感覚で受け止めた、そんな体験だった。
それは私の、受け止める側の感受性のせいだ、というものではなかった。ただ、そういう訴え方、伝え方をしてくる相手が、舞台にいたのだ。相手、とは、役者、だ。そして、その役者をそういう伝え方として成り立たせる舞台美術、照明、音響、劇場機構。その総動員が、私を圧倒したのだ。物量の大きさや音量のすごさ、というものではない。とんでもない小さな音を聞いた、とか、すばらしくかすかなまつ毛の震えを見た、とか、そういう体験もあった。
ささやかなこの人間の声と腕と足と、それが数人そろってるそのつまり「肉体」には、こんなささやかではない力、表現力がある、という奇跡は、海の底くらいの深さに沈んでいた自分の自己評価に希望の光を与えたみたいだった。だから、そのあと私は芝居をやる側に回った。その奇跡のような舞台を目指して何回もチャレンジしていれば、私は上機嫌でいられた。見通しを持つ、ということだけで、人間は救われる。きっと、このまま続けていくと、私はよきものになれる。そう信じていれば、ちっともよきものではない現状に落ち込むことから自由になれる。見通して、めざし、きっとできる、と思い込んで稽古する……だから私は稽古の日々が好きだ。現状のだめさはもちろんつらいけれど、少なくともじたばた目指している日々には、くよくよする余裕がないのだ。
ことばは台本に書かれてる。それを役者は読んで、口にする。だけど台本に書かれてるから読んでる、って気配を消してよ。初めてあたしの胸に浮かんだから発してるの、ってことにしてよ。そうすると心に思ってることが100パーセントこめられている言葉がこれよ、っていうふうにはならないと思うのよ。だって人間はいつも、たえず、そんなうまい具合にことばを選べてないんだから。ああ、うまく言えてない、もっと別の単語が、別の言い回しがあると思うのに、うまく言葉ってあたしを外に出してくれない、ってもどかしい感情を手放さないで言ってよ。だからつまりほぼ「心の中身」を表現してないことばとして言葉を発してよ。じゃつまりその時の心の中身は8割、セリフになってないものを設定してよ。つまり言ってることとは別のことを感じていてよ。言ってることは感じていることとはどこか裏腹だ、ってことを感じていてよ。つまり、「上手に」セリフを言ってはいけないよ。「下手くそ」に。だって、実際の人間は生活の中ではとっても下手くそにしゃべるんだから。下手くそにしゃべってるその言葉をあやつってなんだかうまく伝わった感じが得られるとしたら、それは下手くそな喋りを聞いて受け取って理解したような感覚を持ってくれる「相手」のおかげでぎりぎりなんだから、舞台の上での「相互理解」もそれくらいのぎりぎりだと思って立っててよ。自己完結は意味わからないよ。相手がいて、その人が受け取ってくれてようやく言葉になった、みたいなものじゃないの?
……稽古の日々はもがきねじれた日々だ。こんどこそ『明日のハナコ』をすごい芝居にしたい。自由抑圧への抵抗運動、としてやってるはずなのに、演劇の稽古は楽しい。楽しくて太くて強いスローガンが稽古中はかき消されてしまってる。これではいかん。いやいかんのか?演劇ってだから、いいのだと思う。私たちは表現の自由のために闘っている。だけど楽しく、上機嫌にもがいているのだ。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)