お伽話にでてくるおじさんは今

イラスト:秋山ののの

近所に自動車の修理屋さんがある。
年間362日は働いている体格の堂々としたおじさんだ。いや失礼な言い方をすればほぼ肥満体形の巨大なキン肉マンだ。油汚れの作業服、解体しかけのボンネットやらタイヤやら、金属ごみが山と積まれている店先は、自動車修理屋としては見栄えが悪い。都会では見られない豪放さ、知り合いでなければ、新規の客など寄り付かない。しかしその分、修理費用は良心的で、「タイヤ減ってますよ。交換するなら今安くしときますよ」と脅しのようなセールスをガソリンスタンドで受ける私は、迷ったらそのおじさんに聞きに行く。「そんなもん悪質なセールスじゃ」と断定して言ってくれる言葉を聞くたびにほっとする。無骨なおじさんは口が悪い。不景気を嘆き、きれいごとを言う政治家をぼろくそに言い、近所の古いコミュニティを批判する早口は方言がきつくて時々聞き取れない。まあ要するによくいる田舎のお喋りな壮年だ。
ドアミラーをぶつけて修理を待っている間、雑談になった。彼はトランプの関税を話題にした。あれはひどい、このままだと世界はどうなるのか、などと大きな問題を語りだした。スパナで作業しながらの嘆き節。長いその説話を聞かされるのを避けるために私は話をそらすつもりで合いの手を入れた。
……僕は昼間の畑仕事の間、身体は忙しくても耳がひまだから、ずっとラジオを聞いてるんよ。AMラジオはね、あたりさわりのない喋りでやっぱり面白くない。だけど見つけた。おもしろいのは、株のラジオでね。一日中株式市場のこと喋ってるラジオ局がある。相場なんてね、予想があたるのも外れるのもどっちもありだってことかな。パーソナリティが好き勝手に断定する。株は今後伸びますよ、って新NISA絶賛の語り手がいる一方で、世界はまもなく恐慌じゃ、ってここ2-3年そればっか喋り続けてるよっぱらいみたいなのもいる。中でも面白いのは相場師みたいな短期トレーダーの語り。それと新自由主義のことを絶賛する語り。ふつうにテレビやラジオでは一方の経済政策を露骨に翼賛するような分析家、登場しないからね。考えてみればアメリカ共和党の言い分みたいな評論家、画面に出ないもんね。民主党みたいなのやらSDG’sの主張しか上品なマスメディアにはでてこない。だけどそういう良識をぼろくそに否定するその断定口調はもう痛快。極端なおじさんのその番組があほらしくて好きなんだけど、今、まさに、しかし、その人の言うとおりになってきたよね。こわーい感じはしますよね。…
株のラジオを延々聞いている、という私の発言に、彼の目が一瞬きらりん、と反応した。彼は言った。
「鈴江さん、僕はねえ。もう間もなくスタグフレーションが来るんやないかと思ってる。」
この油まみれのおっさんの口から経済用語が出てくるとは思わなかった。
「僕ら生まれる頃にあった、いうあれよ。ウォーレンバフェットいうのがおってよ。このトランプ関税の数か月前に一気に株手放して現金化しとったちゅうやん。だからこの暴落の影響を全く受けとらん、っていうやん。そいつのバフェット指数言うのがあるらしくてな。つまり今のアメリカの株価いうのんは実力からいうと200パーセントらしい。な鈴江さん。もう近々世界の株の価値は半分になるいうて。調整が一気に入るて。おそろしいよ。そうなったらもうそら、壊れるよこの国はよ。」
私は、10年ほど前に評判になったトマ・ピケティという学者が言った「r>g」っていう不等式が世界経済の歴史を説明してる、って説を紹介してその話に愛想良い相槌を打った。学生時代は国際経済学のゼミにいた私なりの懸命の雑談だ。資本主義のもと、富は時を追って必ず偏在していく。富の不平等は拡大し、拡大しすぎた格差は経済の発展を阻害するようになる。これ以上もたないところまで来ると、人類は一気に格差を壊す事件を起こす。革命か、戦争だ、と。富の世界はいったん壊れる。多数の人命が奪われ、社会が壊れるが、それによって格差はいったん解消し、そこから健康な経済発展がまた再開するのだ……という論理だ。油まみれの自動車修理工のおじさんはもはや作業の手を止めて私にむかいあって話す順番を待っていた。
「そうよ。世界はいったん壊れると思うんよ、鈴江さん。どう思う?」
このおやじは、多額の株式投資をやっているのだ、と私は思った。このおやじが壊れるのを心配しているのは世界ではない。自分の投資だ。以前は太陽光発電を建設するのが趣味だ、と聞いたことがあった。コンビニを買い取って人にやらせたりしたが失敗して撤退した、とも。彼が切実なのは自分個人の銭儲けだ。世界のことに切実?そんなのリアリティのない話だ。
それにしても垢じみた赤銅色のおやじが、ここまで 専門用語を口にしたり、国際経済の話にくいつくとは思わなかった。そんな輩がこんな田舎の金属ごみの中にいるとは思わなかった。彼の知性は経済情勢に関してはスマートで、自説を誰かにぶつけて確かめたがってる気配があった。他流試合を申し込む剣術家の腕試しのような議論が今試されたのだ、という感触があった。
街角の物乞いのあとをつけたら実は豪邸に住んでいる富豪だった、というおとぎ話。経済の危機がどうとか考える前に、私はその物語の主人公が目前に現れたことに驚いていた。たまに発見する逆説的な人物の造形に、またここで出会ったのだ。本物の実力ある人は目下の者を威圧しない。威圧好きはたいてい自信のない男だ。人づきあいがよくて陽気そのものに見える社交家は家に帰れば抗うつ薬が手放せないモラハラおやじだったりする。本物の金持ちは金持ちであることを全力で隠す。大きな車を乗り回すサラリーマンは意外に実態の金銭生活はさみしいもので、虚栄のためにやせる思いだったりする。この自動車修理工のおじさんが乗り回す薄汚れた中古の軽自動車は、逆にその国際金融での成果を隠すカモフラージュだったのかもしれない。
さて。そして。実力をはるかに超えた通過発行量はいよいよ世界規模で破綻しようとしているのか、はたまた現代貨幣理論のほうが正しくて、そんな財務省の主張してきたような破綻は幻だというのか。おじさんの危機感は、新鮮に私の思考を刺激した。彼は救われるのだろうか。彼のような富裕な人たちが今固唾をのんでトランプの挙動に注目している。その注目している様子は、それ自体が異様で興味深い。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)


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