愛してるかって問いたい。

イラスト:秋山ののの

そしてもうひとつ推定できるのは、顧問教員たちが「演劇好きではない」人たちばかりになったということだ。そこは私が事情を知っている。「演劇こそ私の情熱」というタイプの演劇部顧問はどこの県にも複数いた。福井にも六、七人はいた。けれど順番に彼らは定年を迎え、ついに福井県では最後の一人がこの作者玉村先生だったのだ。玉村先生が定年で顧問会議から去ったその翌年に早速起こったのがこの事件だったのはわかりやすい符合だ。

演劇好きの顧問なら、生徒がどんな感情で稽古の日々を送るかを知っている。泣き、笑い、怒り、もめて、仲直りして、緊張して、本番の前の日は眠れなくなって、本番の朝は表情が消えて、本番の袖の中では震えて半泣きになって、暗闇から舞台の明かりの中に出ていく彼らの後ろ姿は生まれたての仔牛のように弱々しい。上演が終わったら生徒は緞帳のかげで抱き合って泣いてしまうし、楽屋では意味もなく踊ってしまう。全員で同時に迎える緊張と不安、そして乗り越える興奮と解放感は、ステージものの部活なら誰もが知っている一体感、連帯感、高まった非日常の感覚は言葉で説明しにくいものだ。しかも彼らはたいてい人生でステージ初体験なのだ。私はそれを大学生演劇で経験した者だが、性の初体験と演劇の初体験とどちらが強い記憶になっているか、容易には答えにくいほどの重みだ。…誇張に聞こえるだろうか。この『ニッポン人は亡命する。』出演者一人一人に聞いてみた。初出演ってどんなだった?普段言わないけれど、どいつもこいつもろくでもない強烈な興奮を体験していた。記憶が強烈なのも例外がない。

そういうことは、経験者なら皆知っている。どんな稚拙な舞台作品だったとしても、その主観的重みは、すれた大人のステージの緊張とは比較にならない。そんな初舞台の上演を「なかったことにする」決定は、近距離で共感をもって接している教員なら怖くてできるものではない。おそらく福井の教員たちは日頃、部員の稽古には立ち会えていない。多忙はもちろん。そして接する時間不足の結果の無関心。生徒の感覚には鈍い他人と化したのだ。

人を殺すことは、殺す側の精神を傷つける。戦場で人を殺す体験は多くの場合殺した兵隊のトラウマとなってその後長期間苦しめることとなる。中国人捕虜の首を試し斬りさせられる新兵の仕事は、日本兵には強い恐怖を与えた。生徒の生をころすこんな仕打ちは、演劇の生を感覚として知っている者ならだれだってできるものではない、と私は推定する。顧問たちは知らない人たちになってしまったのだ。

悪人だと言ってるわけではない。平凡なサラリーマンなだけだ。

教員ってそれでは困るのじゃないか。授業の巧拙が、とか、事務処理の遅速が、とか、公務意識の高さが、とか、勤労者としての規律が、とかいう以前に、教員に備わっていてほしいのは人間味だったはずだ。生徒の感情に共感し、生徒とともに不安を悩み、生徒の敵となって成長を促す、失敗も多く矛盾に満ちた、愛の豊かな素朴な大人であってほしかったはずだ。愛だ。つまり、愛だと私は思う。

人権を、政治意識を、表現の自由を、いろんな高尚なことばより前に、素朴な問題だ。実は、私が問いたかったのは、愛してるか、ってことかもしれない。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)


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