
福井県の『明日のハナコ』事件に取材したわけではない喜劇、という副題をかかげた芝居を、自分の手で演出して上演するのが今月だ。2月23日愛媛県の今治市のちいさな普通の会議室だ。3月1日にはお昼ごろ鳥取県の倉吉市、夜に鳥取市でも実行する。どれもこれも、まったく演劇の上演会場、とは想定されていない素の会議室だ。きっとお客さんは戸惑うだろう。
演劇を見慣れている人たちは「こんなところで演劇するの?」と思うだろうし、公民館に慣れた人たちは「うわ。いきなりお芝居始まった」とびっくりするだろう。私はわりと昔からこういうなんでもないところで本気の上演をするのが好きだ。それはいくつかの観劇体験がもとになっているのかもしれない。
韓国から来たマダン劇(仮面劇)を、四十年ほど前に京大西部講堂で見た。舞台は客席がぐるっと四角くとりかこむ真中にあって、役者は舞台から降りると、そでに隠れたりせずに、登場人物をやめて、仮面を外して客席の最前列の席にすわりこんだ。そこで汗を拭きながら芝居を眺める。至近距離のそこに休憩中の素の役者がいて、やがて出番になるとよっこらしょ、とさりげなく舞台にのぼる。舞台に立つと突然大きな声、身振りの張りで芝居の登場人物に変わる。ほんの近い距離は肌に来るような感覚で、そのギャップがショックだった。そういう変化を初めてみた。レベルの低い演劇界隈の演劇人だった私は、そんな役者の変化を見たことがなかった。
そののち、次第に迫力のあるレベルの役者たちと協働するようになると、稽古場でいくつもの「変化」を目撃した。特別な照明や舞台美術のない日常の場所だからこそ、非日常的な迫力はとくに違和感がきわだつ。普段見慣れた白い壁、なんでもない空間が、はりつめた緊張感で呼吸が苦しいような場所に変わることがある。劇のスタッフであることの幸運をかみしめる瞬間が、くる。そんな特別な違和感を、なんとか客に体験してもらえないかな。そう考えて、いろんなしつらえを工夫した。四方客席、円形舞台、テーブル劇、稽古場公演。機材のそろった専用の劇場で上演することよりも、そういう刺激はときに自分のなにかをチクチクと刺激してくる。好奇心?探求心?創造性のまんなかってこういう気配だろうか、というような体感をくすぐられる感覚。演劇には不利にみえるところにあえて挑む逆境の快感?
しかも今回の今治は、「みかんの会」という、二十年ほどの観劇組織が解散した後の残党たちが客を集めてくれる企画だ。新劇、きちんとした市民会館のような一方客席でばかり劇を見てきた高齢の方々中心の集まり。彼らが、どんなに離れても五メートルの近い役者から飛んでくる唾や息に耐えられるだろうか。壇の下にいて安全を守られる肘掛椅子にいた客が、段差も守ってくれる暗闇もないパイプ椅子を不快に思わないだろうか。もっと言えば、「小劇場演劇」と呼んでいいようなジャンルの活動が存在したことのない町での芝居だ。
もっとさかのぼればはるか昔、おそらく戦後しばらくまでは、どんな村にも村芝居の舞台が組まれていた。収穫が終わればおじさんたちは歌舞伎の役者になった。生きていれば94歳になるわが亡き父は、女形のお化粧顔を写真に残している。青年団、福井県の武生というムラでのことだ。ところが村芝居は村々から消え、人は芝居を演じなくなった。そして見なくなった。テレビの娯楽が市民から能動的な演じる趣味を奪い、近い距離で芝居を生で見る喜びを奪ったのだ。
もともとヒトという生物には「演じたい欲」のようなものが普遍的に備わっているのじゃないか、と私は考えるようになっている。いったん舞台で演じる味をしめた人は、見るより演るほうが百倍おもしろい、と知っている。一回やるとやめられないのが役者、とよく言われる。私もそれだ。いやそれは人それぞれよ、と反する体験を語る人もいるかもしれないが、いやいや、素朴な、人が群れるただの場所で特別ななにか窮屈すぎる縛りのない演し物を、普段見慣れた顔の前でやるという条件が守られたら、おそらく高い率で幸福度の数値は上がるだろう。実験結果はそう示すのじゃないか。それはそういうことをきちんと楽しめるタイプの方が生存の確率が高かった、という進化のプロセスからくる必然ではないか、と私は仮説を立てている。集団行動、そして演劇行動が得意か否かは自然淘汰・適者生存の一項目じゃないか?
私が臨床心理学専攻の修士論文で扱ったのは高齢者のミュージカル出演初体験はその幸福度に影響したのか、というテーマだった。明らかに幸福度の向上は見られて、そのプロセスにも共通性が見いだせる、そういう質的研究になった。
私が二月に試すのは、ただ、そのヒト科の特徴に沿った行動計画にすぎないのかもしれない。しかし何回味わってもあの近い距離の緊張と興奮は自分のなにかをよびさます。太古の、肝の奥にくすぶるそれに、もう一回火がつく、と言ったら誇張すぎるのだろうか。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)
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《「ニッポン人は亡命する―けっして福井県の『明日のハナコ』事件に取材したわけではない喜劇―」上演情報》
2月23日(日)11:00・15:00
会場:波方公民館 二階第二会議室
愛媛県今治市波方町樋口甲253
料金:一般 2,000円 学生 1,000円(中学生以上)