謹賀新年。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、2025年。
生まれてからずっと兵庫県民の私は、今年は阪神・淡路大震災の発生から30年という節目でもあり、少し前から、あの1月17日のことを思い返しています。
能登半島地震の発生からも1年が経ちましたが、そこでの暮らしが平穏な日々を取り戻すには、まだまだ長い年月が必要そうに思います。
「天災は忘れたころにやってくる」というのは有名で、物理学者の寺田寅彦の言葉です。
地震が数十年おきにおこっていたこと、しかしその度に人々への被害がもたらされていたことから、『だから、忘れずに、備えなければならない』と警鐘を鳴らしているのでしょう。
しかし、ここのところ、天災…自然災害は忘れる前に次々と起こっている気がします。
「天災」というのは天から降ってきた災いで、地震も台風も豪雨も津波も干ばつも、人間の力が全く及ばない何か大きな力が、それらを起こして人々の生活を苦しめているように思う言葉です。
昔は、日照りも、冷夏も、地震も、台風も、もしかしたら神様のお怒りだととらえていたかもしれませんし、ほかに様々な解釈がなされていたことでしょう。
私たち人間は、確かに、自然の猛威に対しては無力である場面が多いことは、そうだとおもいます。
最終的には、祈るしかないという場合もあるでしょう。
しかし、そもそも「災害」というものを考えると、それは「天」が人間に与えた試練であるばかりではなく、むしろ「人」が社会の中で作り出してしまったものと言えるものも多々あるようです。
地震や台風の発生そのものを抑えることは、今の科学技術では難しいでしょう。
しかし、それらの発生が「災害」の発生と直結しているわけではありません。
「そりゃ、もちろん、地震や台風の規模にもよるだろう」と思われるかもしれませんが、一概に、「大きい地震が大きい災害になる」とも言えません。
地震のマグニチュードの大きさと、死傷者数や被害額は、単純に相関(マグニチュードが大きければ死傷者数等が大きい、小さければ小さい、という直線的な関係性)があるわけではないデータは多数あります。
「災害」を死傷者数や倒壊した建造物、復興に必要な金額で捉える…つまり、地震や台風が「人が暮らしている場所や暮らしそのものを破壊し、人命を奪った」という状況になり、それが規模が大きいと「災害」となるわけですが、災害が起こるには、そこに『人が暮らす社会』があるのが前提です。
そして、私たちが暮らす社会には、よく見ると、”災害に遭いやすいであろう”とか、”いざという時に逃げたり身を守ったりしにくいであろう”と、想像できる状況があります。
住まいの場所や構造、経済力、年齢、障がいの有無や状況、病気の状況など、個人の状況や生活に関連するものや、社会の法律や制度、など。
それらは、個人で、家族で、仲間で、ご近所で、職場で、学校で、地域社会で、市町村で、国で、国際的にも、人間が取り組んで準備をしたり支えたりできるはずのことが、たくさんあります。
2025年。穏やかな年になりますように・・・
とはいえ、おそらく今年も、夏は暑く、巨大な台風も発生するでしょう。
その他、いろいろな自然や人為的な出来事があるでしょう。
経済的にも厳しい日々なので、その上にさらに防災!となると、今で必死なのに…と思う気持ちも起きるわけですが、自分でできる以上のことについては「足らない!」という声を上げていくことが大切なのだと思います。
暮らしの中に安心と、「良かった」と思えることが、皆様にとって1つでも多くある1年になりますように。
備えていきましょう。暮らし続けていきましょう。
そして、「良かった」と思えるよう、求め続けていきましょう。