
彼女をガンで失った。亡くなってからもう3年になる。
酒田に戻り一緒に暮らし始めたのだ。おれは彼女といけないことは何一つしていない。当たり前のことをしてきただけだ。亡くなってからは気が変になった。あれ程の凄絶な苦しみは見たことがなかった。出来る限りのことはした。が、叶わなかった。逝ってしまった。全てを賭けていた。最愛の人だった。
外に出られない日が続いた。酒田の町は全てがいるはずもない彼女だったからだ。出れば彼女が現われる。そこにいる。もうどうしようもない。悲しすぎてやりきれない。何も手につかない。酒ばかり飲んだ。浴びる程飲んだ。そうするしかなかった。未だかつてない悲しみに打ちのめされ続けていた。
何人かの友人が来てくれた。東京からわざわざ励ましに来てくれた。その度にかえって辛くなるのだった。その繰り返しだった。もうどうすることも出来ない。いい年をして、引き込もり同然になっていた。
だが、こうしてはいられない。いくら何でもこれでは本当にダメになる。死んでしまうと思った。何ヶ月か経ち、ふと某氏のことが頭を過ぎった。以前東京で何度かあったことのある知人だった。親しい訳ではない。とある活動で多くの人を束ねている多忙な人だった。この人なら聞いてくれる。この人に吐き出せばきっと何とかなる。漠然とした憶測にすぎなかったが、失礼を承知で手紙を書いたのだった。今思えば、検察や弁護士などは必要ではなかった。いきなり裁判官にすがる思いだったのだ。
すると、受け入れてくれた。気持ちがほんのりとあたたかくなった。おれは暇とイキオイに任せて殆ど毎日のように書く有様だった。それも、泣き事や弱音を吐き出すだけだ。それが、事もあろうに2年以上も続いたのだった。途中からは日々の出来事や愚痴といったどうでもいいようなことを書き出す始末で、楽しく思うような時もあった。本当に申し訳なかったと思っている。それにしても、何という呆れたやつだろうか。自分でも訳がわからなくなっていたのだ。血迷うとはこのことだろう。
こうして、「気にしなくていいですよ」という某氏の優しい言葉に甘えっ放しだったのだ。だが、そのお陰でおれは立ち直りつつあった。外出も出来るようになったし、食事も面倒な自炊も平気になっていった。これ以上の迷惑はかけてはいられない。「もうすっかり落ち着いたから、大丈夫です」と某氏に伝えた。
が、そんな訳はない。大丈夫だなんて、涙を流すことより辛い気持ちなど誰にも分かるはずはないのだ。もうおれはこの苦しみを一生背負って生きて行くしかない。そんなことは初めから分かっていた。おぼろ気ではあったが、そう思っていた。某氏へは甘え以外の何ものでもなかったのだ。
さて、突然だが、最近はキャベツをよく食べている。その動機は、いつもの血圧の薬の時間にふと胃腸薬の「キャベジン」が頭に浮かんだからだ。飲み過ぎの胃をやさしく守ってくれると思った。このように、おれは単純なやつでどうしようもないのだ。
また、おれは話すことがコロコロ変わる。話があちこちに飛ぶ。集中力がないのかもしれない。言い訳になるが、話したいことがいっぱいあるからだと思う。
それでも、一貫しているものが一つだけある。それは、ビートルズだ。何年経っても飽きることがない。ビートルズは永遠に不滅だ。ビートルズを超えるものは存在しない。世界一最高のバンドの偉大なビートルズ。天才だ。全てが好き、大好きだ。人は好きなものが一つあれば救われるのだと思う。
酒田の大雨災害で自衛隊から救助されたおじいさんの顔が忘れられない。憔悴しきっていた。「がんばれ、負けるなよ。生きろ」と村人が声を掛けていた。おれ達に出来ることはこれしかない。自然の猛威はいくら用心しても無力だが、知恵を出し合えば何とかなることもある。終わりが見えないことなどまっぴらだ。お偉いさんは戦争をなんとかしろよ。
まだ夜明け前だ。風の音が聞こえる。窓の外は冷たい風が荒れ狂っている。酒田に厳冬が忍び寄っている。春が来ない冬は勘弁してほしい。お前がいない4度目の冬だ。奇跡など起きなかった。頑張らなくてもよかったのに、いつも頑張れよと言っていた。
余命宣告だけはドクターに言わせなかった。残された時間を有意義に過ごすしかない。だが、日に日に悪化の一途を辿るだけで何も出来なかった。抗ガン剤も種類を変えても効きやしない。苦しみが増すばかりで、動くことも出来ない。
それなのに、彼女は前向きだった。「退院したら車椅子で散歩に連れてってね」と言う。任せろよ。「うなぎが食べたい、焼き芋が食べたい」。すぐに何でも用意した。でも、一口口に出来るかだった。何一つ実現しなかった。おれより口惜しかっただろうよ。その日一日を、その瞬間を生きるのが精一杯だった。
人は、2~3日寝なくても何のことはない。彼女は苦しむばかりで寝ていない。彼女は美しかった。おれの頬はゲッソリこけていた。
人間の機微、男と女の関係は当人以外には理解しえないことがあると思う。おれは彼女の家庭をメチャクチャにしてまで一緒になった。乗り越えるしかない。乗り越えるしか。
悲しい音楽を聞くのは悲しくなるのが嫌だからだよ。何もかもが切なくなる。もう何を言ってもお前には届かない。当たり前の愛などあるはずがないんだ。おれはこうして自分を見つめ直すことが出来るが、少しも幸せだとは思わない。
もし、今度お前に会ったら、離さないからな。
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